ベルリン映画祭の真実
--2000/4/2


 4月上旬号のトピック・ジャーナルで「ベルリン映画祭での日本映画の評判」と題し、Dの発言として

「必ずしも盛況だったかというと、どうだろうか。『金融腐触列島・呪縛』などは、公式記者会見には数人しか集まらなかった」

と記録されている。「呪縛」は駄目だったが、緒方作品、サブ作品、特別上映の「どら平太」が受賞したから全般的には評判がよかった、という論調である。Dの発言には一点の嘘もない。しかし、真実とも程遠い「ちょっと待て、こら」であるので、「呪縛」盛況担当当事者として、補足しておきたい。

 まず公式記者会見だが、二百席はある会見場で「呪縛」に集まったのは、まさに「数人」である。ならば、「MONDAY」以下フォーラム部門に出品した日本映画の公式記者会見はどうか。「だれも来なかった」ということになる。しかし、これもまた嘘ではないが、真実から程遠い。なぜなら、出品作の多いフォーラムには公式記者会見がないから。その代わり、上映後のQ&Aがある。だから、記者たちは上映会場に現われる。「呪縛」が出品されたのはパノラマ部門である。ここは、戦後のベルリンのような部門で、列強によって「分割統治」されている。コンペ部門のディレクターであるモーリッツ・デ・ハデルン選考のスペシャル、デ・ハデルン夫人のエリカ選考のドキュメンタリー、ヴィーランド・シュペック選考のその他である。

 「呪縛」は当初、スペシャルであったのが、キネ旬受賞式にぼくが参加するため上映期日をいじって終盤に下げていくうちに、シュペックの管轄に移った経緯がある。そして、このパノラマ部門ゲストのすべての記者会見は、コンペ参加作品のプレス試写とぶつかるようになっている。その結果、パノラマの公式記者会見の出席者数は限りなくゼロに近くなる。ただし、よっく聞いてくれ、コンペにはなくて、パノラマにあるものがある。上映後のQ&Aだ。そう。パノラマは、コンペの記者会見とフォーラムの上映後Q&Aを兼ね備えている。だから、記者たちはパノラマの昼の公式会見はパスしても、夜の上映会場を訪れる(無論、夜のパノラマをパスしてフォーラムの作品を選ぶ記者もいる)。

 「呪縛」の公式プレミアである2月19日には、会場であるシネマックス7に大勢の記者たちが参加した。Q&Aは予定を大幅にオーヴァーして「映画祭随一の知的な盛り上がり」だと言う地元の記者もいた(知的とは言えない盛り上がりは、無論、レオナルド・ザ・ビーチ・デカプリオである)。前日のターゲ・ツァイトゥング紙、当日のデル・ターゲシュピーゲル紙の絶賛評も拍車をかけ、翌最終日の上映も満席となり、Q&Aも評判も、素晴しくよかった。単独のTV取材は、ドイツ、スペイン、南米など6本。それぞれ、30分から1時間に及ぶ「イン・デプス」インタヴューである。作品紹介をしたTV番組は14本。これが、より正確な事実である。

 たった数人の「呪縛」記者会見にしても、Dがよく耳を澄ませていれば「好評」だったことがわかった筈である。つまり、記者会見はすべてその夜TVで流される。この放映で、作り手の応答が評価される。「呪縛」の場合は、公式会見が公式プレミアよりも2日前になってしまったため、映画以前にこの会見が「評判」になり、町で声もかけてもらった。その大きな理由は、日本語独語英語が入り乱れる繁雑かつスローな会見をオミットして、英語オンリーでやった直接さ、であろう(パノラマ部門では、ドイツ語字幕も存在しないのだ。)。

 それに反して、フォーラムの上映作品がどんなに評判になっていても、オフィシャル部門であるコンペ、パノラマの参加者にはそれが聞こえて来ない。逆もまた真なり、である。デ・ハデルン率いるベルリン映画祭公式部門とウルリッヒ・グレゴール率いるフォーラム部門は、まさに「ふたつのドイツ」であって、ことさら対立を煽るそれぞれの支持ジャーナリストもいる。この両部門の対立は、80年代に於けるパノラマ部門の発展で深まったのだそうだ。ぼくがキネ旬特派員の肩書きで初めて参加した1972年のベルリン映画祭は20本前後のコンペと百本を超えるヤング・フォーラムが共存していた。その後、「ヤング」をとりはずしたフォーラムはコンペに出てもおかしくない作品をネットワークの広さで取り込むようになり、そのフォーラムから作品を取り戻そうとするかのようにコンペはパノラマを併設した。そして今、ベルリンの壁は崩れても、ベルリン映画祭でドイツをふたつに分ける壁は明確にある。

 その状況下で、なにが起きているのかと言うと、賞の乱発である。賞を与えることで、それぞれの権威を位置づけようとする。ベルリン映画祭期間中に「受賞」した作品は二十本をくだらない。国際批評家連盟賞などは主だった映画祭に「寄生する」賞で、その曖昧な選考基準に不快の念をもつ批評家も多いという。極端な話、数人単位の選考委員のひとりしか見ていない作品でも受賞することがあるという。ベルリン映画祭受賞式で名前を呼ばれた日本映画は「独立少年合唱団」ただ一本である。これとて、なぜ、コンペの出品作なのか、といった疑問を含め、評価は様々である。しかも、ベルリン名物の金熊銀熊でもないメダル受賞である。

 それにしても、ベルリンを念頭において、そこでワールド・プレミアを行い、受賞という事実を勝ち取った仙頭プロデューサーの戦略は見事である。今や、日本映画であっても、ベルリン/カンヌ/ヴェニスの三大映画祭のコンペを目指すなら、その季節に照準を合わせた「ワールド・プレミア」でなくてはいけない時代になっている。その点で、ぼくを含め「呪縛」関係者の反省材料は多い。ベルリンでは、コンペに出て、熊を射止めて勝ち点1、なのである。ドイツからは巨匠の3作品がコンペに出て、いずれも銀熊を仕留めた。その他の熊ちゃんは、米メージャーの3作品とチャン・イーモウに行った。コンペのなかで米メージャーに特別枠が組まれているのは周知の事実だ。6作品がコンペに出たら、その半分を受賞させなければ翌年からの「呼び物」が組めないプレッシャーがある。イーモウはベルリン映画祭が「紅いコーリャン」で「発掘」した「名誉市民」である。しかも、そのときのヒロインで愛人のコン・リーが今回の審査委員長。新作「ロード・ホーム」のヒロインは現愛人の新進女優チャン・ズィイー。豪華メロドラマの舞台設定がある。という結果を見れば、今年のベルリン映画祭はホームチームの圧勝であった。

 三大映画祭はそれぞれの母国のホームゲームなのである。米メージャーは、その三つのすべてに君臨する。明快にそう言い切ったのは、帰りの便でパリまで一緒になったアン・ブロシェであった。彼女の主演作「魔女たちの部屋」はデジカメを多様したクロード・ミレールの映像センスにも勢いがあり、神経衰弱の女たちを、その病室中心に見せながら最後まであきさせない趣向があった。なによりも、ブロシェとアニー・ノエルの競演が見事であった。しかし、主演女優賞は地元「リタの伝説」のビビアナ・ベグローとナージャ・ウル。これはこれで、見事な主演助演コンビだったが、ものを言ったのは「ホーム・アドヴァンテージ」なのである。受賞を逸したブロシェには、アウェーのゲームだから負けて当然、といったさばさばしたところがあった。なるほど、とぼくは思う。ならば、と思う。東京国際映画祭は日本のホームゲームなのである。ヨーロッパからの参加者や審査委員たちは、日本もしくはアジアが勝って当然のゲームとしてやってくる。そのアドヴァンテージを、ぼくたち日本の映画人は存分に生かしているだろうか?

 当初の疑問に戻ろう。ベルリン映画祭での日本映画の評判はよかったのかわるかったのか。なんでもいいから「受賞」で切るならば、アメリカ、ドイツばかりかフランスにも負けている。ぼくにはっきりと答えられるのは、「呪縛」の評判はよかった、ということである。そして、もうひとつ、究めて重要なことは、バイリンガルな若者集団「NEW CINEMA FROM JAPAN」の活動だろう。彼らは、インディー作品主体に日本映画全般の窓口として認知され、愛され、活動している。パノラマの日本映画公式記者会見にも必ずスタッフが参加し、英語で質問し、場を盛り上げる。この連中の活力は確実に日本映画の評価と結び付いている。

 

 

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