第一回の会場となったのは銀座の「過門香」(かもんか)という中華料理店。原田監督・遊人・(孔)による事前の月島もんじゃ会談にて、監督からこの店の名前が出たことで決定。事前の(徳)とゆたかくんの下見&予約の際の感想は「店の内装が豪華で、映画のセットかと思った〜。料理も旨いです!」との事。約20名の予定が当日までにジリジリ増殖し、26名参加。当日のサーバントも(徳)とゆたかくん(福田穣)にナゼか決定。(孔)は偉い(!?)ので指示に専念。ともかく、全国から原田親子との晩飯を食いに集まったHARADA FREAKSである。
原田監督は大変優しい方、という印象で、言葉足らずの質問に多くの言葉を駆使して懇切丁寧にお話頂けたので、苦笑物の質問などもしていたかもしれない自分のあさはかさは、そういうわけで今回露呈しなかったみたいです。ふう。私はどちらかというと、映画作りのスタンスみたいな事についてお聞きしていたと思います。柄にもなく緊張していたのでちょっと曖昧な所もあるのですが…主なもの 映画におけるセリフの在り方 監督の作る映画に共通する、リズムを重視した言葉についてお聞きしました。コギャルの言葉の「リズム感」の面白さ、土佐弁の歌うようなリズム、「呪縛」での特殊な経済用語に対する説明の拒絶。セリフを「話し言葉である」事に執心してフィルムに載せている事を話していただきました。展開して、日本の映画で通用する「舞台的台詞回し」の脚本と役者の特殊性について言及し、監督の作品でも出演されている役者さんの「台詞回しと演技」のすりあわせでの苦労話なども聞かせていただきました。またそこから「書き言葉としての字幕が海外作品の話し言葉としてのセリフを殺している」という話題にも移り、日本に存在する「字幕道」の不思議についてお話頂きました。一度に表示される(少なくなる一方の)字幕の文字数と、古くから残る美学みたいなものの間でオミットされる原作の機微。なぜ字幕は数人の「字幕職人」によって寡占される、大量生産のシステムに添ってないがしろにされるのかについて話し合いました。字幕の新人というのはどうして出ないのか、とか、字幕にもコンペがあったらどうか、といった話しをさせていただきました。また、これは2次会に移ってからの話しになりますけれど、こうしたリズム感を前提に考えた作り方の、原田監督作の時代劇が観たい、というお話もしました。昨年何本か制作された時代劇の、全てを説明する台詞などの面白みの欠落みたいなことを話し、監督も「作りたいがゴーが出ない」と嘆いておられました。思えば黒澤明「七人の侍」でも、農民の話す言葉は話し言葉であり、意味不明であることを否定していなかったですし、そんな切れ味のある原田監督の時代劇が観たいという思いを強くしました。 監督が映画を作る時のテーマ 前作に通じているテーマについて、本来であれば見る側がそれぞれに感じればいいものだし下世話かなあとは思いましたが聞いてしまいました。「個と集団」という事でした。日本映画では内的描写に入り易いですが、やはりここが原田監督の映画の独自性を規定しいるのかな、と感じました。聞いてみて良かったと思いました。 日本映画とアジア枠 これは日記やこのページでも熱くお話されているトピックですが、厳然とあるアジア枠という枠を無視してはいけない事、ここ数年でアジアブームが吹く中で、この流れを逃さない事が大切である事、日本をアジアと切り離してきた日本映画界の失敗など、生だからこそきけるお話もあり、理解が深まりました。何気に濃いお話を聞けた明け方の3次会は個人的に大変楽しかったです。あれが一番HARADA FREAKSらしいお話が聞けたかもしれません。 こんな話してたのね。ほとんど会話聞いてなかったからな〜。今回は監督・遊人と初対面の参加者との交流中心に席を用意して、既に面識のあるメンバーはまるで見合いの席の親の様に「ここは若い(!?)ヒトにまかせて・・・。」と離れて見守っていたのでした。さ、次回の食事会はいつの日か?乞うご期待。 |