原田眞人監督総括



2月19日付けのフランクフルター・アルゲマイン紙は、こんなふうに書いている。

「(前略)モーリッツ・デハデルンは22年間やりたい通りのことをやってきた。今年もいつもと同様、ドイツ公開を間近に控えたアメリカ映画を集めて映画祭の呼び物とした。加えて、まったく同じ製作チームによる2本の中国映画、しかも、お説教臭さまで似通っている2作品を(コンペに)招待することにも、なんの疑問を感じなかったようだ。そりゃそうだ。60才になったデハデルン氏が、映画祭以降の未来を安定させるために最近打ち上げたコンサルタント会社"デハデルン&パートナー"は、ヨーロッパとアジアの連携を深めることが専門なのである。(後略)」


 第51回ベルリン映画祭で審査員グランプリ、監督賞、新人賞男女を分け合った中国映画「北京バイシクル」(以下中国BB)と台湾映画「ビテルナット・ビューティ」(以下台湾BB)は、台湾のアーク・ライト・フィルムスとフランスのピラミデによる「三都物語」と名付けられた6作品のシリーズの、一番手である。以降、北京のジャ・ジャンクー、香港のネルソン・ウーなどの作品が次々と映画祭を襲うことになる。

 この2作品のダブル受賞は「意外」としか言いようがなかった。米バラエティ紙は「最初の2巻しか見所のない作品」と「中国BB」を呼び、「ソニー・クラシックが全米で配給するというのも驚いたが、審査員グランプリと新人男優のダブル受賞にはもっと驚いた」と書いている。「台湾BB」に関しても「"北京バイシクル"と寸部違うわぬ単調さ」と評し、地元ジャーナリズムも同様の論調だ。数人の香港映画関係者からも「作品は最悪。ただし、ペギー・チャオのロビー活動は超エネルギッシュ」というコメントがあった。ペギーは2作品のプロデューサーである。今年で映画祭委員長の地位を去るデハデルンが、最後に、恥も外聞もないコテコテの政治力を発揮して、将来の道を示した、というのだ。

 これが本当なら大スキャンダルである、などと額に青筋を立てるつもりは毛頭ない。これは、常識なのである。おれを含む日本人プレイヤーが、人が好かったから、足元をすくわれただけの話なのである。「クロエ」はいざ知らず、「狗神」に関して言えば、映画祭は食うか食われるかのビジネスである、と納得していれば、確実に「受賞」はできた。「受賞」は、おれの今後の活動に勢いをつける点で役に立つ。だから、もう少しこだわりをもつべきだったかもしれない。


 いずれにせよ、ここで選考にもれた怨みを書き連ねるほど、おれも暇ではない。これからの日本映画と日本映画人全般の課題として、映画祭にはいかに接すべきか自分なりに学んだことを報告して、将来の、欧米での日本も絡んだニュー・アジアン・シネマの興隆につなげたい。何回も書くが、今回の審査選考の醜悪さは、同一製作会社の2作品にダブル受賞させたことであって、これがどちらか一作品の受賞で、そのために「空き」が出来たアジア枠に、「JSA」か「狗神」が入っていたら、納得はできた。あるいは、アジアからの受賞が一作でも、納得できたと思う。胡散臭い結果を出したばかりか、主演男優、主演女優、監督という三賞の受賞者が代理であったということも、「最悪の審査員」というおれの評価に繋がっている。「受賞式」というのは審査員が作り出す「作品」でもある。情けない「作品」を送り出した審査員は、酷評されてしかるべきなのである。

 そもそも、デハデルンのスワンソングのための最大の政治力学は、審査委員長にハリウッドの大物ビル・メカニックをもってきたところから始まっている。今年、アメリカ映画が金熊を獲ったら大スキャンダルになる、とは地元ジャーナリストのだれもが口にしていた。過去の受賞リストを見れば一目瞭然だ。「シン・レッド・ライン」、「マグノリア」と2年続けてアメリカ映画が金熊をさらっている。その前は「セントラル・ステーション」を間にはさんで、やはりハリウッド大作が2本続いている。そういう節目で、自らの幕引きの年にスター性のない「元20世紀フォックス社長」を審査委員長に招くなど、どういうことかと首をひねったものだ。

 その謎が、受賞結果でやっと解けた。ハリウッドをシャットアウトするためには、ハリウッドの大物が一番だったのである。ビジネスの繋がりがあるから、偏った受賞結果を出せないというエクスキューズがメカニックなら成り立つ。しかも、デハデルン自身も、ハリウッドから怨まれないですむ。直前になって、「ハンニバル」や「ザ・プレッジ」がコンペから外れたのは、こういう「政策」がわかったからに間違いはない。

 「トラフィック」は、貧乏くじを引いたことになるが、既にアメリカでの数々の受賞があり、アカデミー賞の本命とみられていたから、なにも傷つくものはない。無理矢理ベニシオ・デル・トロを「主演」に担ぎ上げて、評判の高さを「主演男優」ひとつでカヴァーしたまではよかったが、来るわけのない俳優に与える「こじつけ」の賞は、選者に哀れを誘う。受賞式の質を考えるなら、最後までベルリンにいたソン・ガンホに主演男優を与え、「トラフィック」を監督賞にもっていくのが順当ではなかったのか。どうせ、質は二の次の受賞結果だろ?

 台湾BBと「狗神」が上映された2月13日の時点で、コンペの半数以上が出揃っていた。プレス試写は台湾が朝9時、うちが12時半。記者会見は台湾が11時半、うちが2時45分。プレミアはあちらが4時半でこちらが7時半。この2作に関する限り、時間枠、会見出席者数、反応、入り、すべてこちらに分があった。翌日の噂では、「トラフィック」と「イタリアン・フォー・ビギナーズ」と「狗神」がトップを争っている、というものと、審査員たちのハードルは高く、前半では有力候補が一本もないとして、「トラフィック」以下の話題作の欠点が論議されたが「狗神」はこれには含まれなかった、というものがあった。「含まれなかった」というのは論議の対象にすらならなかったかもしれない、という憶測も成り立つ。いずれの場合も、台湾BBはまったく話題にもなっていない。

 この「審査員たちのハードルが高い」というのは三大映画祭の常套句でもあって、ヴェニス映画祭で「HANABI」が受賞したときも、そういう噂があった。突出した作品がなく審査員の評価が割れるときはいつもそうなのだ。ただ、ヴェニスでは塚本晋也が7人(だった?)の審査員のひとりだった。彼は「HANABI」を積極的に支持し、論陣を張った。彼以外の「HANABI」支持者はひとりだった、と塚本の口から聞いたことがある。しかし、審査委員長のジェーン・カンピオンが推す作品もなく、塚本の熱意がだれよりも勝ったといえる。


 今回のベルリンでアジアの審査員はふたりいた。中国の謝晋監督とNYジャパン・ソサエティのキュレーターという肩書きをもつ平野共余子。謝晋監督は93年の中国台湾ダブル金熊受賞の大スキャンダルの当事者のひとりで、台湾作品の監督はアン・リーであった。どういうふうに馬鹿げたスキャンダルであったかというと、受賞作の国名表記を発表のとき間違え、間違えられた国の関係者が猛烈に抗議して、ダブル受賞となったのだ。その話は、昨年11月下旬、作品選考のため来日したデハデルンの口からも聞いた。その時点で、「狗神」はまだ見せることができなかったが、彼は内定している審査員にふたりをあげ、おれと平野さんの付き合いを知っているという風に片目をつぶってみせた。

 そのときに予定している審査員のひとりとして、アン・リーの名前をあげたから、93年のスキャンダルを再現するのか、と冗談まじりで尋ねたくらいである。結局、アン・リーは実現しなかったが…。平野さんは「バウンス」や「呪縛」の熱烈な支持者で、それらのNYプレミアをジャパン・ソサエティで開いてくれた。「狗神」の強力な味方であることを、疑ってもみなかった。

 おれと平野さんが今回ベルリンで初めて顔を合わせたのは「JSA」のパーティである。「作品の話はできませんので」と彼女が言って、それは当然ですよね、とおれが答え、世間話だけで別れた。翌日、「狗神」のパーティでも同程度の会話を交わしただけ。以後、現在にいたるまで、彼女とは一回も話をしていない。これっておかしくないか。病的に潔癖ではないか。

 審査員が出品作の関係者と親しく話すことを奨励する映画祭などない。ただ支持する作品がある場合、関係者と接触して対策を練らねばならぬ場合もある。謝晋監督とペギー・チャオが戦略を練らなかったと信じるなら、それはあまりにも人が好すぎる。

 おれもそうだが、こういう点で日本人はルール尊重に動いてしまう。人が好くてはいけないときに、お人好しになってしまう。おれが出来なくても角川から何人か行っているのだ。だれかが、審査の状況をことこまかにチェックすべきだった。少なくとも、台中ダブル受賞の可能性が少しでも察知できれば、いくらでも論陣を張れた。いやいや、論議を張る手助けができた。論議をつくせば、欧米勢は耳を傾ける。カンヌ映画祭でも、中国、台湾、香港三作がメインの賞を受賞し、日本の二作は無冠だった。一年もたたないうちに、ベルリンでも同じことをやるのか。しかもカンヌと比べて評価の極端に低い同一プロデューサーの2作にダブルで受賞などということになったら、日本で暴動が起こる、と微笑む。これが強力な一点。こういうことを言えるのは、日本人の審査員だけである。欧米勢にとっては、アジア映画に受賞枠を4つも与えるんだからいいじゃないか、とくくられかねない。審査委員長と映画祭委員長が敵であっても、いくらでも筋を通す戦い方はある。

 しかし、それも、無論、平野さんが「狗神」なり「クロエ」を支持していた場合の話だが、彼女の活動の実際からみて、日本映画を支持しなかったとは考えられない。結果として、受賞作は「全員一致」であり、おれへの連絡も一切なかった。あまりにも、行儀がよすぎる。


 折角日本人審査員がいながら、審査状況のチェックという当然のことを怠ったのには、おれたち角川チームの人の好さに加えて、もうひとつ大きな理由がある。プレス・エージェント(パブリシスト)の存在である。角川は「呪縛」にも関わったパリ在住のトップクラスのプレス・エージェントを雇った。それがリチャード・ローマンドだ。

 ところが、今回はベルリン行きの直前にかなりごたついた。ひとつは「狗神」の海外プレス担当として、去年夏から角川チームに加わっている英仏の評論家スティーヴン・サラザンの存在だ。彼が書いた海外プレス用のストーリーを、リチャードが書き直してきた。スティーヴンは人柄温厚で、おれの友人でもあるから、それをどう使おうと文句は言わない。おれは、リチャードの文章のキャッチーな巧さを買って、映画祭プログラム用にはリチャードの文章を使い、既に日本で印刷に入っているプレスブックの、ロング・ストーリーをスティーヴンのもの、ショート・シノプシスをリチャードのもの、と使い分けるように、角川の担当者に指示した。

 なにがどう間違ったのかわからないのだが、映画祭のプログラムには、スティーヴンの文章を途中でぶったぎった中途半端なものが掲載された。これにはおれもびっくりしたが、リチャードはヒステリックになった。ギャラでも、「呪縛」と違ってコンペでは3倍のギャラになる、と言われて驚いた角川勢が値切る交渉をしていたこともあったから話がややこしくなった。

 そんな状況を知らずに、おれが滞在中のLAからリチャードに一年ぶりのメールを送った。今回は熊狩りだ、メインの賞を狙うのは無論だが、音楽の村松と助演のしおんは今回がスクリーン・デビュー、遊人も初の大役だから新人賞目当てでも戦略を考えてほしい、とお祭り気分で書き立てた。

 すると、翌日、おれと角川とスティーヴンあてに3通の怒りのメールが送られてきた。曰く、「狗神」は素晴らしい映画だしどんな賞にも値すると思うが、賞というのは審査員のテイストによるもので…おいおいおい、常識論ふりかざしてどうなってんだ、こいつ、と思う内容で、「何か特別な戦略でもあるのなら教えてもらいたいものです」ともある。新人戦略に関しては、売れるのは監督と主演女優、ほかは来てもらってもなんの興味ももたれない、と冷たいものである。

 それでも、直前で新たな人材を雇うわけにもいかないので、おれは返信を打った。「どうも言葉の選択が間違っていたようで、ごめん。受賞が審査員のテイストなんてことは当たり前のことで、こちらは楽しむために熊狩りを口にしただけ。特別な戦略は、にこにこしてるぐらいかな。新人たちに関しては、そういうことなら、記者会見のひな壇でおれが売るから、そちらの仕事を無闇と増やすつもりはない」

 翌日、安心した、これで気持ちよく仕事ができる旨の返信があったが、なんだか違うな、という感じが残った。新人賞云々は、こういう攻めかたもできるのではないか、という助言だったのに、全面否定。毎年、3、4本の作品のプレス・エージェントをやるのだから、余計な仕事までやりたくないのはわかる。しかし、監督主演以外にも売れる要素がある、というのは余計な仕事だろうか。

 ベルリンへ行く直前に帰国したとき、スティーヴンへのリチャードの「関心」は殊更大きく、なんのためにベルリンへ連れて来るのか、どういう仕事内容なのか、とかなり神経質になっていることも知った。我々は、リチャードを刺激しないように、スティーヴンとも相談して、彼の活動をトーンダウンすることにした。

 実を言うと、スティーヴンは我々にとってのワイルド・カード的な役割もできたのだ。日本でのデハデルンとの会食には、彼も同席し、デハデルンともかなり打ち解けた。もし、ロビー活動をするなら、彼ができるポジションにいた。例え、平野さんが沈黙を守っても、彼が直接、映画祭委員長から審査状況を聞き出し「必要な戦略」を授けてもらうことができた。これを、リチャードは経験から知っていたし、おそらく、デハデルンもスティーヴンが「来る」と踏んでいたのではないか。

 すべてが望む方向に動いているとき、ワイルド・カードを使おうとは思わない。そう、お人好しの我々は自らワイルド・カードの動きを封じ、リチャードがやりやすいように、微笑みだけを振りまいていた。

 ところで、リチャードだが、今回は4本のコンペのプレス・エージェントを担当していた。「狗神」と「ラ・シエナガ」と、あとの2本。なんだと思う?台湾BBと中国BBなんだ。強力に横やり入れて新人賞を獲ったペギー・チャオの2作品! 受賞結果が出て初めて、リチャードが「狗神」の新人賞狙いに冷淡だった理由が納得できたのは、なんとも…。

 もっと付け加えるなら、例えば、14日の取材日、おれは十数本、アマミもそれぐらいの取材をこなしたが、遊人・しおんへのリクエストもかなりあった。ところが実際には、彼らは待ち時間が多くて、2本しかこなさずホテルへ帰された。ところが、それを聞いて、えーっ!うちも取材リクエストしていたのに!と切れるプレスもいたのである。この日は台湾勢の取材もリチャードがふたりの助手を使って仕切っており、単に段取りが悪かっただけ、と思いたい。それにしても、こういうところからきっちり戦略を組み立てなければ、賞には届かない。無論、5年か6年に1本、なにもしないでも賞を獲れる日本映画は出る。しかし、そんな偶然の産物を期待していると、足をすくわれる。


 日本人に対してはなにをやっても許される、という風潮がないだろうか。彼らは基本的に人が好くて、怒らない。例えばカンヌで、有力視されていた「ユリイカ」が無冠で終わっても、国際批評家連盟賞ともうひとつのなんとかいう賞をもらった「2冠だ!」と日本のメディアは書き連ねた。有力視されていたものが、本チャンで獲れなくて、中国、台湾、香港、イランがアジア枠を独占しても喜んでいる。そういう印象が欧米人にはある。だから、今度のように理不尽な結果になっても、メディアは人の好い距離感を保っている。だから、おれは、怒る。自分のうっかり加減も恥じて、怒るし、警告もする。

 うっかりと言えば、もうひとつ、こんなことがあった。あるヨーロッパのTV記者から取材を受けていた。取材室は密室である。彼女は、どんな賞を獲れそうか、と尋ねてきた。こんな質問するやつ、ほかにいなかったけどな、と思いつつ、おれは適当に答えた。彼女は重い訛りの英語で、自分の同僚が、ある賞のプレジデントで、「狗神」を非常に気に入っている、と言った。しかし、評価が割れているのでまとめるのは難しいかもしれない、と言って彼女は穏やかな微笑を浮かべた。

 これってなんだか、わかるか? おれはそのときは普通に受け答えしていただけだ。あとで、謎かけがわかったときも、別に残念なことをしたとは思わない。そういう賞もある。すべての賞がそういう賞である、という見方もある。作品がよければ賞が獲れる、というのは幼稚な幻想だ。7部門あれば2部門はそうなるかもしれないけどね。

 日本の課題は、出品者、審査員、メディアの部分でもっと積極的なプレイヤーになることだ。でなければいつまでたっても、アジア枠は中国に独占され、やがて、韓国に独占される。そうならないために、デハデルンをコンサルタントに雇うのもひとつの方策だし、ぺギーのように元気いっぱいのプロデューサーと組むのもいい。ただ、いつでも、日本人にとって最大の戦略は怒りであることを肝に銘じておくべきだ。

お人好しビジネス、くそっくらえ!

 ということで、ベルリンはケチがついたんでグランドスラム作戦の最後にまわし、次は2002年のカンヌでも狙ってみるか。いや「天使の牙」ではないよ。弾はほかにもいっぱいある。


 あ、それから、海外を意識しすぎる日本人監督だって? ばか言うなって。日本を意識しすぎる奴等が多すぎるんで錯覚してるんじゃないの? 映画は、海を超えるのが当たり前のことなんだよ。