2017/02/12 (日) その男スタンリーのこと。
■改めてKUBRICKを崇める。
と言っても全作品を論ずるわけではない。きょうは「シャイニング」に絞る。なぜなら、先日、封切り以来36年ぶりに全篇通しで見直して(つまり、部分的には何回か見た事があるということ)愕然と学ぶものがあったから。
先ず名前。発音表記はキューブリックかクーブリックか。
私は「フルメタル・ジャケット」字幕翻訳のとき、本人と国際電話で何回か話したが、向こうは「スタンリーだけど、今話せるかい?」という感じ。で、私は「そうは言ってもMR. KUBRICK・・・」などと受け答えして。
まあ、意識としてはクーだけど声に出すとキューになっていたような。
特典映像のコメンタリーで娘のヴィヴィアンが発音しているところでは「キューブリック」でしたね。
とはいえ、クーにも取れるキュー。研究家でもキュー派とクー派がいるわけで。英国人はクーに近く米国人はキューに近い、と言えばいいのか。
結論として、発音するときは「キューの右30度クー寄り」を心がけ日本語表記の場合は、どちらも正解、でいいのでしょう。
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では、私の「シャイニング」第一種接近遭遇の想い出。
1980年の5月にLAで見て、当時コラムを持っていたポパイ誌に映画評を綴った。簡単に言うと、「期待外れ」。同時期に見たもうひとつの怨霊もの「チェンジリング」を大絶賛しているくらい。
何が気に食わなかったのか。
父と子の対決を旧人類と新人類の対決と捕え、その帳尻の合わせ方に失望している。「怨霊に与する父の心理が不明瞭」とか「ラストショットで父の心理の軌跡をすべて納得させようとするイージーさ」とか。
スキャットマン演ずるハローランが救出に来た途端、活躍もせず死んでしまうのが不満で、新人類仲間の死になんの反応もしないダニー少年の描写や、広大なオーヴァールック・ホテルの内部を膨大な製作費をかけて英国エルストリー・ステュディオに建てた「愚かさ」に疑問を投げかけている。そしてジャック・ニコルソンの演技についてはこんな風に書いている。
「ニコルソンの『鬼気』はなるほど演技として一級なのだが、観客席に笑いを誘う効果もある。これから数十年先、『我らのジャック』を知らない世代が見たらその怪演にぶったまげることもあるかもしれぬが、とりあえず、現時点ではミスキャスト」。
そのあと、演技の引き出し方や秀逸な色調の撮影をきちんと褒めてはいるが、このジャックの辟易感だけは憶えていて、36年ぶりに作品をじっくり見た。
そして、納得したことがひとつ。
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「シャイニング」は飛鳥建築である。千年の時を経て造形美が完璧となる。
無論、私の映画鑑賞36年は一般建築の経年では千年に匹敵するわけですね。
まさに、千年の時を経たジャックの「怪演」は盤石の名演。そして、それ以上に、シェリー・デュヴァルのヒロイン像に感服感服感服。
「シャイニング」はA+の名作です。「バリー・リンドン」を見直した時と同じインパクトを私は受けたわけ。
シェリーを追い込んだキューブリックのテイク50回といった「演技指導」。その「いじめ」の効果を演出意図だと理解して、撮影中は監督となかよくなるのはやめようと決心したシェリーの心構えが存分に映像に記録されている。
特典映像のメイキングでも、それは検証されている。
このメイキングを撮ったヴィヴィアンと父スタンリーの親子関係は長くなるので別の日に書く。
きょうは「スティーヴン・キングのシャイニング」との比較論でまとめよう。
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「シャイニング」の原作者キングは、36年前の私と同様、キューブリックの「シャイニング」を気に入らなかった。それで、1997年に3エピソードからなる4時間半のリメイク版を作った。
私は「シャイニング」に興味がなかったから当然、キング版を見たいとも思わなかった。36年ぶりの鑑賞に刺激されなければ、永遠に見ることはなかっただろう。アマゾンUSAで購入して、ほぼ一気に見てしまった。
キャストは、ニコルソンの役をスティーヴ・ウェバー、シェリーがレベッカ・デモーネイ、ダニー・ロイドがコートランド・ミード、スキャットマン・カラザースが監督でもあったメルヴィン・ヴァン・ピーブルス。他に、バリー・ネルソンが演じた支配人ウルマンをエリオット・グールド。キューブリックが一切使わなかったボイラールームの設定と、そこの責任者がパット・ヒングル。
演出はサイファイやホラーでキャリアの長いミック・ギャリス。キングが製作総指揮と脚本、亡者のパーティで出演もしている。
演技陣もスタッフもかなり質の高い仕事をしている。殊に、トップビリングとなっているレベッカの演技は、ヘアスタイルがどんな時でもほぼ同じという点を差し引けば、素晴らしい。母として妻としての情感はシェリーとはまったく別物だ。
エピソード2での深夜の、セクシーなナイトガウン姿でのウェバーとの長い会話シーンは、台詞も素晴らしく、この作品の白眉だ。コートランド少年も、ダニーと同様の天才的な演技を見せる。メルヴィンは、雰囲気はよくてもやはりアマチュア演技が顕著でスキャットマンには遠く及ばない。ウェバーは頑張っているが、ニコルソンと比べることは酷だろう。殊に、狂気は。
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じっくりと人間関係を描き、ジャック・トランスの堕落、葛藤を一歩一歩煮詰めている点ではなるほど、と思う。母と子にも、回避の選択肢が何段階かに分けて与えられている。キングがキューブリック版を気に入らなかった理由はよくわかる。
しかし、キューブリックがキングの小説を「救済」したことも、それ以上によくわかる。
キューブリックは独自の宇宙に人物を配置した。100%光と影をコントロールできる環境で、見事な色彩設計をした。撮影のトーンだけでなく、人物の色温度も含め。
エピソード3になると、キング版はあらゆる面で破綻していく。演技、プロット展開、衣装、台詞。そして創造性に欠けたパーティ。
キューブリック版を彩ったグレイディのフィリップ・ストーンや、バーテンダー・ロイドのジョー・ターケルといった完璧なゴースト脇役が、キング版にはいない。ゴーストの色が、稚拙だ。
想像力に欠けた殺し合いは退屈で陳腐だ。そして、なによりも、キングが安っぽいキャメオで登場し、彼の小説がB級であることをしっかりと思い出させてくれる。
キューブリックは、この通俗的なホラー小説を、崇高なるゴシック・ホラーの芸術に昇華させたのだということがよくわかる。
キングは未来永劫、キューブリックに感謝すべきだ。
以下次回。
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