2017/02/18 (土)

続その男スタンリーの続き。


「シャイニング」メイキングの撮影当時、ヴィヴィアンは17才だった。監督の愛娘の17才がカメラを廻しているからジャック・ニコルソンは無防備に自分をさらけ出した。シェリー・デュヴァルは本音を語った。

18時間撮影した素材はもう残っていない。貴重な文化遺産はこの短いメイキングしか残されていない。が、これはメイキングという名の映画芸術の最高峰に位置している。

私はヴィヴィアンのコメンタリーなしで一度見て、二回目は彼女の明るくウィットに富んだ解説を聞きながら見た。そして、スタンリーを偲んで涙を流した。

コメンタリーを収録したのは90年代で、ヴィヴィアンは30才になったばかりだったと思う。まだ父の懐に抱かれ、豊かな感性にみなぎっている。「フルメタル・ジャケット」ではアビゲイル・ミードの名前で、作曲もしている。

「アイズ・ワイド・シャット」に父が取り組んでいる頃、ヴィヴィアンは新天地のカリフォルニアに向かった。父の遺作となったその作品に関して、親子の間で激論があったのかもしれない。少なくとも、彼女がスコアを作り、不採用となったことまでは知られている。



ヴィヴィアンはLAでサイエントロジーに染まり、その教義どおり、家族との関係を一切断った。(「アイズ」に主演したトム・クルーズはサイエントロジストだが、彼が彼女を勧誘した事実はない)

スタンリーは娘に長い手紙を送り、何度も説得を試みた。しかし、彼は愛する娘と再会することなく1999年に亡くなっている。

母と姉たちの説得で、ヴィヴィアンはスタンリーの葬式には戻った。が、ひとりではなかった。サイエントロジストの「監視役」がついていた。結局、家族との溝を埋めることができず、2009年、姉アーニャが癌で死んだときには、英国に戻ることさえしなかった。キューブリック家がヴィヴィアンとの絶縁宣言を出したのは2010年だ。



今、ヴィヴィアンの姿はYOU TUBEで見ることができる。2013年のダラスでの動物救済活動のニュース映像だ。2014年には父との想い出の写真をTWITTERに出して話題にもなった。日本語サイトでもこれを見ることはできる。そしてもうひとつのニュースは、シェリー・デュヴァルの救済だ。

シェリーは15年前に映画界を引退して、心を病んだ。去年の暮れ、シェリーはTV番組に「患者」として出演した。彼女の体重は、見たところウェンディを演じた頃の三倍くらいに膨れ上がっていた。私は、YOUTUBEでその変貌を見て愕然とした。同じ1949年生まれということもある。

シェリーの大きな双眸だけは往年の面影を残していた。が、出て来る言葉は、ヴィヴィアンのカメラが記録した知性のかけらもなかった。そんな姿を、人気医者が「食い物」にして、自身のTVショーに使ったわけである。

シェリーの現状を知ったヴィヴィアンはショックを受け、医者に対して怒りの声明を出し、彼女の救済活動を始めた。GoFundMeのサイトを立ち上げたのだ。

17才の頃のヴィヴィアンを信頼してくれたシェリーへのせめてもの恩返しともいえるし、父との絆の再生ともいえる。

しかし、今年57才になるヴィヴィアンは、救済されているのだろうか。

ヴィヴィアンとキューブリック家の人々の、断ち切られた絆は誰が修復するのだろう?

「シャイニング」という映画作りは、偉大なるホーム・ムーヴィ・メイカー、スタンリー・キューブリックにとってまぎれもなく家族の幸福の頂点だったーーー。


2017/02/15 (水)

続・その男スタンリー。


36年前の鑑賞では「怨霊に与する父の心理が不明瞭」と不満を抱いた「シャイニング」。スティーヴン・キング版を見て、その不満がいかに稚拙であるか充分納得した。

後者ではスティーブ・ウェバー演ずるジャック・トランスの父性が丹念に描かれる。ジャック・ニコルソンのように、いつの間にか取り憑かれてしまうのではなく、段階を追って亡者の列に加わり、父である自我と憑かれた男の葛藤が最後まで続く。

殺戮行のクライマックスに於いてすら父性を取り戻し、妻子を救ったりもする。その一点だけとれば、「名作にふさわしい主人公のアンビヴァレンス」をとことん追求しているとも言える。10年後のエピローグでは愛に溢れた父の姿を息子に見せたりもする。おそらく、今年出版される「シャイニング」の続編は、この1997年ミニシリーズ版の「20年後」という扱いなのだろう。

しかし、父トランスの葛藤を丁寧に描けば描く程、作品の香華は消える。魔界と現世界を行きつ戻りつする葛藤は、端的にバカバカしい。

TOO ARID IN ITS DIDACTICISM…

少なくとも「シャイニング」のドラマ仕立てではそうだ。

キューブリックは原作を一読してそういった「愚かな」要素を一切排除した。



オーヴァールック・ホテルの領域に身を置いた時点から、父トランスは魔界に踏み込む。父性はどんどん消え、葛藤はミニマム。主役にふさわしい葛藤を与えられるのは妻ウェンディのシェリー・デュヴァルだ。

とはいえ、キューブリック作品の主人公たちは、アンビヴァレントな状況に遭遇した途端、一気におのれの進むべき道を理解し、迷わず進む。

「現金に体を張れ」のスターリング・ヘイドンのギャングは故郷で死ぬために直線で動いたし、「突撃」のカーク・ダグラスは戦争の愚劣さの象徴たる処刑を直線で見据えた。「ロリータ」も「博士の異常な愛情」も「2001年宇宙の旅」も「バリー・リンドン」も「フルメタル・ジャケット」も同じ。

キューブリックは、葛藤を嘆くムダを一切省き、そのとき人間が如何に前進するかを追いかける。

「シャイニング」の最大のテーマは、父が妖怪になった、のではなく、夫がモンスターに「戻った」なのだ。アルコール中毒者の暴力を体験し、怯えながら夫を見守って来たウェンディの怖れとおののきと戦いを存分に描き切る、そこにキューブリックの創作ベクトルは向いている。

シェリーのほっそりとした体型、眼球の大きさはムンクの「叫び」を彷彿とさせる。叫ばせるための狂気が夫には不可欠だ。ジャック・ニコルソンはその演出意図に寄り添い、ジェームス・キャグニー系の狂気の芸術に早い時点で入り込む。シェリーを生かすために前進する。

スタンリー・キューブリックの「シャイニング」はシェリーの、怯えの演技、叫び顔の芸術が突拍子も無く傑出している。

さて。

私が語りたいのは、スタンリーと娘ヴィヴィアンとシェリーの関係だ。

スタンリーには娘が三人いる。



妻クリスティーネの連れ子カテリナと、スタンリーとの子アーニャ、ヴィヴィアンだ。殊に、末娘のヴィヴィアンは幼児期から父の作品と深く関わって来た。スタンリーはヴィヴィアンを撮影現場に「飾っておきたくて」あらゆる機会を与え、ヴィヴィアンは父の期待に答えた。

私と息子遊人の関係にも似ている。殆どの監督が、親の仕事場を子供に見せたいと思うし、やがては一緒に仕事をすることもある。

キューブリック家のハイライトは「シャイニング」のメイキングだった。

この35分のメイキングは、偉大なるスタンリーの映画作りの真実を伝える「王国の鍵」でもある。同時に、悲しい家族ドラマへの序章でもある。

以下次回。


2017/02/12 (日)

その男スタンリーのこと。

改めてKUBRICKを崇める。

と言っても全作品を論ずるわけではない。きょうは「シャイニング」に絞る。なぜなら、先日、封切り以来36年ぶりに全篇通しで見直して(つまり、部分的には何回か見た事があるということ)愕然と学ぶものがあったから。

先ず名前。発音表記はキューブリックかクーブリックか。

私は「フルメタル・ジャケット」字幕翻訳のとき、本人と国際電話で何回か話したが、向こうは「スタンリーだけど、今話せるかい?」という感じ。で、私は「そうは言ってもMR. KUBRICK・・・」などと受け答えして。

まあ、意識としてはクーだけど声に出すとキューになっていたような。

特典映像のコメンタリーで娘のヴィヴィアンが発音しているところでは「キューブリック」でしたね。

とはいえ、クーにも取れるキュー。研究家でもキュー派とクー派がいるわけで。英国人はクーに近く米国人はキューに近い、と言えばいいのか。

結論として、発音するときは「キューの右30度クー寄り」を心がけ日本語表記の場合は、どちらも正解、でいいのでしょう。



では、私の「シャイニング」第一種接近遭遇の想い出。

1980年の5月にLAで見て、当時コラムを持っていたポパイ誌に映画評を綴った。簡単に言うと、「期待外れ」。同時期に見たもうひとつの怨霊もの「チェンジリング」を大絶賛しているくらい。

何が気に食わなかったのか。

父と子の対決を旧人類と新人類の対決と捕え、その帳尻の合わせ方に失望している。「怨霊に与する父の心理が不明瞭」とか「ラストショットで父の心理の軌跡をすべて納得させようとするイージーさ」とか。

スキャットマン演ずるハローランが救出に来た途端、活躍もせず死んでしまうのが不満で、新人類仲間の死になんの反応もしないダニー少年の描写や、広大なオーヴァールック・ホテルの内部を膨大な製作費をかけて英国エルストリー・ステュディオに建てた「愚かさ」に疑問を投げかけている。そしてジャック・ニコルソンの演技についてはこんな風に書いている。

「ニコルソンの『鬼気』はなるほど演技として一級なのだが、観客席に笑いを誘う効果もある。これから数十年先、『我らのジャック』を知らない世代が見たらその怪演にぶったまげることもあるかもしれぬが、とりあえず、現時点ではミスキャスト」。

そのあと、演技の引き出し方や秀逸な色調の撮影をきちんと褒めてはいるが、このジャックの辟易感だけは憶えていて、36年ぶりに作品をじっくり見た。

そして、納得したことがひとつ。



「シャイニング」は飛鳥建築である。千年の時を経て造形美が完璧となる。

無論、私の映画鑑賞36年は一般建築の経年では千年に匹敵するわけですね。

まさに、千年の時を経たジャックの「怪演」は盤石の名演。そして、それ以上に、シェリー・デュヴァルのヒロイン像に感服感服感服。

「シャイニング」はA+の名作です。「バリー・リンドン」を見直した時と同じインパクトを私は受けたわけ。

シェリーを追い込んだキューブリックのテイク50回といった「演技指導」。その「いじめ」の効果を演出意図だと理解して、撮影中は監督となかよくなるのはやめようと決心したシェリーの心構えが存分に映像に記録されている。

特典映像のメイキングでも、それは検証されている。

このメイキングを撮ったヴィヴィアンと父スタンリーの親子関係は長くなるので別の日に書く。

きょうは「スティーヴン・キングのシャイニング」との比較論でまとめよう。



「シャイニング」の原作者キングは、36年前の私と同様、キューブリックの「シャイニング」を気に入らなかった。それで、1997年に3エピソードからなる4時間半のリメイク版を作った。

私は「シャイニング」に興味がなかったから当然、キング版を見たいとも思わなかった。36年ぶりの鑑賞に刺激されなければ、永遠に見ることはなかっただろう。アマゾンUSAで購入して、ほぼ一気に見てしまった。

キャストは、ニコルソンの役をスティーヴ・ウェバー、シェリーがレベッカ・デモーネイ、ダニー・ロイドがコートランド・ミード、スキャットマン・カラザースが監督でもあったメルヴィン・ヴァン・ピーブルス。他に、バリー・ネルソンが演じた支配人ウルマンをエリオット・グールド。キューブリックが一切使わなかったボイラールームの設定と、そこの責任者がパット・ヒングル。

演出はサイファイやホラーでキャリアの長いミック・ギャリス。キングが製作総指揮と脚本、亡者のパーティで出演もしている。

演技陣もスタッフもかなり質の高い仕事をしている。殊に、トップビリングとなっているレベッカの演技は、ヘアスタイルがどんな時でもほぼ同じという点を差し引けば、素晴らしい。母として妻としての情感はシェリーとはまったく別物だ。

エピソード2での深夜の、セクシーなナイトガウン姿でのウェバーとの長い会話シーンは、台詞も素晴らしく、この作品の白眉だ。コートランド少年も、ダニーと同様の天才的な演技を見せる。メルヴィンは、雰囲気はよくてもやはりアマチュア演技が顕著でスキャットマンには遠く及ばない。ウェバーは頑張っているが、ニコルソンと比べることは酷だろう。殊に、狂気は。



じっくりと人間関係を描き、ジャック・トランスの堕落、葛藤を一歩一歩煮詰めている点ではなるほど、と思う。母と子にも、回避の選択肢が何段階かに分けて与えられている。キングがキューブリック版を気に入らなかった理由はよくわかる。

しかし、キューブリックがキングの小説を「救済」したことも、それ以上によくわかる。

キューブリックは独自の宇宙に人物を配置した。100%光と影をコントロールできる環境で、見事な色彩設計をした。撮影のトーンだけでなく、人物の色温度も含め。

エピソード3になると、キング版はあらゆる面で破綻していく。演技、プロット展開、衣装、台詞。そして創造性に欠けたパーティ。

キューブリック版を彩ったグレイディのフィリップ・ストーンや、バーテンダー・ロイドのジョー・ターケルといった完璧なゴースト脇役が、キング版にはいない。ゴーストの色が、稚拙だ。

想像力に欠けた殺し合いは退屈で陳腐だ。そして、なによりも、キングが安っぽいキャメオで登場し、彼の小説がB級であることをしっかりと思い出させてくれる。

キューブリックは、この通俗的なホラー小説を、崇高なるゴシック・ホラーの芸術に昇華させたのだということがよくわかる。

キングは未来永劫、キューブリックに感謝すべきだ。

以下次回。


2017/02/08 (水)

その女アレックスのこと。


四半世紀、いや半世紀近く前のことだが、何かの本か記事で怖い予言を目にしたことがあります。ひょっとしたらノストラダムスの予言の一部だったかもしれない。唾棄すべき人物がアメリカの大統領になることによって始まる人類滅亡のシナリオです。その人物のファースト・ネームはドナルドではなかった。が、展開は似ています。

その予言では、危険な大統領誕生に続いて地中海クルーズで衝撃的な暗殺事件が発生することになっていたように思います。標的はP… 縁起でもないから止めておきましょう。

今、アメリカでは良識派、あるいは知性派が次々と反トランプの狼煙をあげています。ロバート判事の大統領令一時差し止めの効果は大きい。それに対してツィッターで「いわゆる判事」と書いてしまったトランプの軽薄さも大きい。

共和党内でも「いわゆる大統領」の攻撃性への反発が始まっているようです。民主党は無論、大統領弾劾へ向けて水面下で動いている。

スーパーボウルでのレディ・ガガの実にクレヴァーな反トランプ・メッセージも大きなポイントでした。

入国禁止令の裁決は最高裁にもちこまれるでしょう。その一方でトランプは彼の言う「制御不能なカリフォルニア」との戦いを始め、リベラルな考え方を砕こうという愚かな大統領令を次々と発するでしょうね。騒ぎはどんどん大きく広範囲になっていきます。しかし、信義を尊ぶ良識派/リベラルは負けない。そこにアメリカの底力が見えて来ます。

こういう事態を評して「騒ぎ過ぎ」とのたまう大バカコメンテイターが日本にいました。

ともかく、その男ドナルドではなく、その女アレックスの話。


さて。

「その女アレックス」はフランスの作家ピエール・ルメートルによるカミーユ・ヴェルーヴェン警部トリロジーの二作目にして最高傑作です。2016年の19刷版オビには「シリーズ累計96万部突破!」とあります。私は、アレックスから入って、一作目の「悲しみのイレーヌ」に戻り、そして昨夜、やっと三作目の「傷だらけのカミーユ」を読了しました。

それぞれ手の込んだ仕掛けで誠心誠意読者をたぶらかすミステリー作家の根性が見事です。「マラソン・マン」を書いた頃のウィリアム・ゴールドマンに匹敵します。殊に、「悲しみのイレーヌ」は、私の限られた知識でいえば、ゴールドマンとトマス・ハリスの影響がかなり強いと思います。ハリスの場合は「レッド・ドラゴン」から「羊たちの沈黙」にかけての、トップフォームのハンニバル・レクターへのオマージュです。

「マラソン・マン」の映画版が凡庸であったのと同じ理由で、「悲しみのイレーヌ」は映画化しない方がいい。

このトリロジーでもっとも映画化しやすいのは「傷だらけのカミーユ」でしょう。その場合、「悲しみのイレーヌ」を前半に据えるとインパクトは強くなる。後半の「追跡者」は当然、尊顔が見えない一人称カメラで描くことが前提です。

「アレックス」はすべての点で映画的ですが、カミーユを主役とする映画には不都合があります。つまり、カミーユに花を持たせるための無理が綻びになっており、映像化すれば、その欠点が拡大されてしまいます。

というところで、以下ネタバレになるので、「その女アレックス」を未読の方はご遠慮くださいませ。



綻びは読んでいる最中は気付きません。第一部から第二部に関して、面白くて一気に読んでしまいます。第三部に至るあたりから徐々に、あれ、れれれ、となり、これは甘いな、という感情が生まれて来ます。とはいえ、そういった綻びを補ってあまりあるのがヒロイン、アレックスの造形です。

才気ある作家が渾身の力で作り上げた薄幸のヒロインです。私が長い間映画化を熱望しているアンドリュー・ヴァクスの「ブルー・ベル」と同じくらい、「煮えたぎるイイ女」なのです。アレックスにべた惚れだから、すべて許してしまいます。

しかし、綻びは綻びです。

アレックスはある時点で誘拐者が、パスカルの父親と知覚します。この時点で、もうひとつはっきりしていることを作者は明らかにしません。後の、カミーユの推理で読者への「種明かし」をします。しかし、論理的に考えると、アレックスは誘拐者がパスカルの父親と知覚した時点で、誰が自分を売ったかわかった筈です。異父兄トマです。パスカルに到達するために彼女は、兄を脅して名前と住所を聞き出しているわけだから。

そして、パスカルだけでなく、兄の顧客として自分をもてあそんだ連中のリストを、脅すことで得ている。その連中を次々と罰していく復讐行脚の道中で、行方不明になった息子パスカルを探す乱暴者の父に誘拐されたわけで、相手がどういう筋かわかった途端、アレックスにしてみれば、兄が自分を売った、あるいは兄が身の危険を感じてパスカルの父と組んだ、と考えるのが自然です。

ところが、彼女は、そう考えない。ゆえに、誘拐者のもとを逃げ出したあと、自宅へ戻り、ご丁寧に兄に「仕事でツールーズ」などというメイルまで送っている。

兄の方は、自分から脅し取ったリストの人々が次々いなくなっているのに、しっかりと妹の復讐の仕上げ地点に立っていて、アレックスがかました初歩的な罠にはまってしまいます。これ、不自然。だけど、カミーユを活躍させるためには、こういった論理と自然な思考回路を無視して、隠し札を煙幕のように使って力で押して行くしかない。

「その女アレックス」を映画化する場合はアレックスとトマを主役にして、警察側を脇に下げるのがベスト。実は、「悲しみのイレーヌ」で使ってしまったエレメントも追加して構成すれば、よりプロットの強度が増すな、などと考えたりもします・・・。

要は、ルメートル犯罪小説の魍魎に私は取り憑かれてしまったようなのです。


2017/02/01 (水)

BORN ON JUNE 14


According to “THE SECRET LANGUAGE OF BIRTHDAYS” a man who was born on June14 is…

ゲイリー・ゴールドシュナイダーの「誕生日事典」によると、6/14生まれは「反骨の人」で「偽善やごまかしを容赦なく暴き」「自己中心で横柄になりやすく」「とびきりの頑固者」「よくても過保護、最悪の場合はワンマン」「競争心が旺盛で、勝つことが大好き」とある。

アドバイスとしては「攻撃したい気持や競争心を人間関係以外のところに限定するのがベスト」または「節度をわきまえ、極端な行動に走らないように注意」。

そんな6月14日男がアメリカ合衆国の大統領になってしまった。故に、USAは急速にDSA; DIVIDED STATES OF AMERICAになりつつある。

例えば、全米俳優協会の授賞式。受賞者スピーチの大多数が声高らかにトランプ政権を批判した。アカデミー賞の授賞式も、おそらくトランプへの批判が相次ぐだろう。

既に、外国語映画賞候補になったイランの名監督アスガー・ファルハディが、イラン人を入国させないというならアメリカには行かない、と表明している。無論、芸術家枠の特別措置を申請することも可能だが、理不尽な大統領令へ抗議することの方が重要だ。世界中の映画人は、ファルハディの姿勢を支持する。

はっきりしているのは、大統領になったことで6月14日男の特性はさらに弾みがつくということ。どうにもとまらない領域に確実に踏み込んでいる。さあ、どうする?


 a-Nikki 1.02