2012/02/06 (月)

アレック・ギネスと12時間を過ごす。


「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」の原作翻訳本を読み始めて仰天した。人名表記が間違っている!!!

ぼくは「ノーツ」を訳したときに著者のエレノア・コッポラ女史と電話で話し、登場人物すべての正確な発音を確認した。何らかの事情で著者に確認できなくとも方法はいくらでもある。ジョン・ル・カレは、そういうことに協力してくれる作者だ。ル・カレと確認を取れなくとも、英国人でル・カレ作品のファンならば必ず正しい発音を知っている。

菊池光訳の「ティンカー、テイラー」に登場する「パーシイ・アレリン」は「パーシイ・アラライン」である。例え日本語に置き換えられても、原作の持つ名前の響きは作者の意図に近い形で表記されなければいけない。殊に、ル・カレは英語の美しい文体と響きにこだわる作家だからだ。「トビー・エスタヘイズ」も違う。正しくは「トビー・エスタヘーゼ」である。「ピーター・ギラム」も「ピーター・グィラム」とすべきだ。

ギャガが配給する「裏切りのサーカス」の字幕は、翻訳の間違いを是正し、映画での発音をきっちり踏襲しているだろうか。


この菊池翻訳本は名前の発音だけではなく、ピーターが「師匠」であるジョージ・スマイリーにタメグチをきく致命的なミスがある。「彼らはおれを、首斬人(スカルプハンター)の責任者にしたのだ」とか「どういう意味なのだ」などとピーターは冒頭でスマイリーに言うのだ。これらは正しい話し言葉にもなっていない。

ピーターが「おれ」と言い、リッキー・ターが「わたし」と言う。人物の背景がまるでわかっていない。当然ながら、サーカスのトップ・ホンチョたちの洗練された毒のある会話の面白さも伝わらない。感覚がずれまくっている。

というわけで、原作を日本語訳で読むのは早々と諦めた。で、BBC製作の1979年度版「ティンカー、テイラー、ソルジャー,スパイ」と1982年度版「スマイリーの仲間たち」をネットで購入し、二晩かけて鑑賞した。前者が7話で5時間15分、後者が6話6時間である。

「ティンカー」はアメリカのPBSで放映されたとき、一部を見た記憶がある。タイトルバックのマトリョーシカ人形がなつかしかった。

「スマイリーの仲間たち」は以前、どこかで書いたが、最後のエピソードだけは見ていて、カーラを演じたパトリック・スチュワートに圧倒された。それで、ベルリンからロンドンに飛び、ウェスト・エンドにあるレストランでパトリックとランチを食べ、「ウィンディー」出演をくどいたのだ。

「ウィンディー」というのは1983年に撮ったぼくの監督二作目で、日独合作映画だった。ベルリンのマンフレッド・ドルニオク・プロダクションが製作母体だった。今回、改めて、若き日のパトリックが演じたカーラのすごみにふるえが来た。


しかし、やはり、このシリーズはなんと言っても、ジョージ・スマイリーを演ずるアレック・ギネスの名人芸が白眉だ。原作者ル・カレの言葉を借りるとエスピオナージ世界の住人には「国家の人格」が現れるという。となれば、スマイリーを演ずるギネスは「英国王の意匠」すら匂わせるということだ。原作ではデブで短足であったものの、1979年にアレック・ギネスが原作者との交友を深め、原作者の髪型、くせ、などを使ってスマイリーになり切って以来、活字のスマイリーもギネスの典雅をまとうようになった。

映画版「ティンカー」のゲイリー・オールドマンはどう頑張ってもアレック・ギネス/ジョージ・スマイリーの品格を盗むことはできない。「もぐら」候補の4人の幹部も、圧倒的にTV版が勝っている。

映画でトビー・ジョーンズが演ずるパーシイ・アララインはジョークでしかないが、こちらのマイケル・オルドリッジはコントロールに嫌われる風格がある。オスカー男優のコリン・ファースも、イアン・リチャードソン演ずるビル・ヘイドンの色気と洗練に遠く及ばない。ピーター・グィラムのマイケル・ジェイストン、トビー・エスタヘーゼのバーナード・ヘプトン、ジム・プリドーのイアン・バネンなど、すべてが適材適所で名演を残している。

特筆すべきは、コニー・サックスばあさんのベリル・リードだ。

ル・カレによると、ギネスはコメディエンヌであるベリルの起用をあやぶんでいたそうだが、これは歴史に残る名場面になっている。あまりに感動して、ぼくは泣いた。

そして、アン・スマイリーを演じたシアン・フィリップス。ピーター・オトゥールとの20年に及ぶ結婚が破綻した3年後の作品だった。

原作と違ってこのTVシリーズはジョージとアン(本質的に他の男の女である妻)との会話で終っている。その締めの一言、「かわいそうなジョージ、あなたには世の中のすべてが謎なのね」でぼくはもう一度泣いた。

ジョン・アーヴィン演出の技量ではなく、原作と、アーサー・ホップクラフトの脚色と、演技の奥行きに心を深く揺さぶられたのだ。


2012/02/03 (金)

わが「卒業」。


2月1日をもって5年間務めた日本大学国際関係学部の教授職を終了した。来年、条件が合えば戻ることもありうるが、今はなんとも言えない。

最後の授業は特殊講義Uの期末テストであった。「レベッカ」から「鳥」までの、アメリカ時代のヒッチコック・タッチを論ずるクラスである。52名が試験に臨んだ。

試験問題は、「鳥」の終盤部など30分間映像を見せ、「Q1: なにゆえヒッチコックはこのように映画を終え、しかもそれをハッピーエンドと呼んだか」をメインの設問とし、「Q2: 授業で扱ったヒッチコック作品でもっとも印象に残った作品を論ぜよ」、「Q3: 授業で扱ったヒッチコック作品関連人名を10名列記せよ」のふたつを加えた。50点、30点、20点という配点だ。

もっともデキが悪かったのは予想通りQ3だった。教養の原点ともなる人の名前を憶えることに関して、昨今の若者は本当に弱い。これは小中学校での教育の問題でもあると思う。偉人達人という個を強調する教育がなされていないから人名を記憶する習慣がない。

ぼくの授業では終始一貫して人名を強調するが、生徒の頭にはなかなか入らないようだ。今季は、エリア・カザンの “A LIFE”を教材とする英語文献の3クラスではこのことをより強調し、特殊講義Uでは控えめに言った結果、大差が出た。英語文献3クラストータル40名の生徒では半数以上が10名の人名を答え、特殊講義Uでは52名のうち3名だけだった。

メインのQ1に関して言えば、20名弱の生徒が50点満点を獲得できた。これは授業の成果であると思う。一般には「不可解」とされる「鳥」のエンディングがヒッチコック流の「ハッピーエンド」であることは、彼の作品群を体系的に見て分析しておけば納得できることなのだ。

Q2 は意外なことに「レベッカ」が一番人気で「裏窓」がこれに続いた。最初に見たヒッチコック映画、あるいは最初に見たモノクロ映画が「レベッカ」だったので印象が強いという答えが殆どだった。前期のクラス80名の間では、「めまい」と「裏窓」が一番人気だった。

この一年、前期後期合わせて130名の新たなるヒッチコック・ファンを世に送り出すことができた。エリア・カザンの授業は初年度から続けて5年やったので、既に社会人となっている卒業生も含め、200名以上の「カザンと赤狩り学習者」を生んだことになっている。

とても愉しく刺激的な5年間だった。生徒たちひとりひとりに感謝したい。

この5年の成果は、「わが母の記」にも反映されている。

というわけで、新たな生徒を開拓すべく、2月29日に、一昨年以来のワークショップをやることにした。男女各20名を二組の「トラブルを抱えたカップル」に分け、「交錯する自然な会話の饗宴」にもっていく。理想としては原田ワークショップ常連半数、新人半数という線だが、どうなるか。寒波襲来とはならぬよう、ふるえて祈ろう。


2012/01/21 (土)

映画に感性を充電してもらう。


イヴェントと時差ぼけが重なっていたので、パームスプリングスで見た映画は3本に止まった。アカデミー賞外国語映画部門フランス代表の “DECLARATION OF WAR”、イラン代表の “A SEPARATION(「別離」)” 、トルコ代表の “ONCE UPON A TIME IN ANATOLIA” である。「わが母の記」は最終上映を観客とともに見た。

外国語映画賞のショートリスト9本は先日発表され、イラン代表は入ったが、フランス代表もトルコ代表も落ちた。有力な落選組はフィンランドの「ルアーヴル」(アキ・カウリスマキ)、メキシコの「ミス・バラ」、我が友ナディーン・ラバキの監督2作目で、トロント映画祭の観客賞も受賞したレバノン代表「ここからどこへ行くの?」、そして南京大虐殺を背景にしたクリスチャン・ベイル主演、チャン・イーモウ監督の「フラワーズ・オヴ・ウォー」といったところか。

同様に日本軍が仇役となった台湾の「ウォリヤーズ・オヴ・レインボー」が入って中国が落ちたということで、業界ではちょっとした話題になっている。これは映画完成後、ベイルと中国当局との間に生じたトラブルが影響を与えているのかもしれない。

ノミネーションの5本、ぼくの予想では、イランの「別離」、イスラエルの “FOOTNOTE” ドイツの “PINA” カナダの “MONSIEUR LAZNAR” ポーランドの “IN DARKNESS” だろう。

LAでは「戦火の馬」に続いて、”DRIVE” “THE DESCENDANTS” “THE ARTIST” “TINKER TAILOR SOLDIER SPY” を見ることができた。

この8本、順位をつけるとトップがダントツで「別離」ということになる。


A SEPARATION。「別離」。

ネットでの日本語の紹介で「会話劇」と書いてあった。とんでもない間違いだ。会話劇というのは会話だけでプロットが展開してしまう動きのない映画だ。「別離」を「会話劇」と呼ぶならすべての探偵映画が「会話劇」になってしまう。

この映画は、「クレイマー、クレイマー」に匹敵する夫婦の訣別から始まる男女の戦いの大傑作だ。

あちらは1980年ニューヨーク・アッパーミドルクラスのカップルだった。こちらは現代イランのアッパーミドルクラスのカップルである。

あちらは子供の養育権をめぐる2世代の戦いだったが、こちらは3世代のレガシーがメインとなっており、さらには同世代の別家族、主人公一家=持つもの、に対抗する「持たざるもの」の家族三人を巻き込んでスリリングな人間ドラマが展開する。

一瞬たりともスクリーンから目を離すことができない。

ベルリン映画祭で作品賞のみならず、主演男優、主演女優のふたつの賞をアンサンブルで受賞したのも当然と言えるほど、全員が見事な演技を見せている。

手法は、レフンやスサンネなどデンマーク勢と同じハンドヘルドの細かいカットバック。アッバス・キアロスタミくそくらえの、スピーディな世界共通言語を持ったイラン映画である。

脚本・監督のアスガー・ファルハディは素晴らしい。稀有の映画作家だ。これ一発でファンになった。前作と前々作のDVDも購入したので、それらの作品もいずれは論じよう。


さて今回アメリカでぼくの感性充電作業を担った8本に順位をつけてみる。

1A SEPARATION (アスガー・ファルハディ)
2THE DESCENDANTS (アレキサンダー・ペイン)
3DRIVE (ニコラス・ウィンディング・レフン)
4TINKER TAILOR SOLDIER SPY (トマス・アルフレドソン)
5ONCE UPON A TIME IN ANATOLIA (ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)
6THE ARTIST (ミシェル・アズナヴィシアス)
7WAR HORSE (スティーヴン・スピールバーグ)
8DECLARATION OF WAR (ヴァレリー・ドンゼリ)

1がA+。23がA。45がA−。つまりここまでが年間ベストテンクラス。
以下、6がB。7と8がCということになる。


最下位作品は正直、アカデミー賞外国語映画のフランス代表に選ばれたことに首を傾げたくなる作品だった。女優転じて監督となったヴァレリーが自分の体験をもとに、実生活のパートナーと共同で脚本を書き主演している。癌に冒された子供を抱えた「戦争」の顛末を、逞しいユーモアとともに綴ったものだ。

アマチュアの元気には圧倒されるが、それは同時に感情の垂れ流しにも繋がる。とにかく抑制というものが一切なくて、「シェルブールの雨傘」カップルばりに歌い始めたりもする。子供が咳き込もうが平然とタバコを吸い続ける主役カップルのヘヴィスモーカーぶりにも嫌悪感が高まった。

子供の命を救うために「最高の医者を!」と叫ぶだけで「最高の医者」が手に入ってしまうあたりも、白けるばかり。フランス的と言えばあまりにフランス的。

去年代表となった名作「神々の男たち」がノミネーションに残れなかったことで毛色の変わったものを選んで来たのだろうが、この選定に激怒したフランスの監督たちは数多いだろう。


「アーティスト」は愉しい映画だがそれだけ。ジャン・デュジャルダンのダグラス・フェアバンクス型チャームとベレニス・ベジョの熱気は間違いなく二重丸。

が、ジェームス・クロムウェル、ジョン・グッドマン以下英語圏の出演者全員がお粗末。フランス人監督とのコミュニケーションが出来ていなかったのではないか。サイレントだからこそ、的確な演出が要求されるのに、ほったらかしにされて各自が勝手にやっている感じだ。1シーンだけのマルコム・マクドウェルなど無惨無惨。

こういう映画に作品賞を与えたニューヨーク映画批評家協会以下のグループにハリウッドの映画人からの蔑みの声が寄せられている。

我々映画人は過去の諸作を研究し、オマージュを捧げるなり盗むなりして自分のものにする。創意工夫を施す。「アーティスト」は徹頭徹尾、コピーの所産だ。オリジナルなものはなにもない。しかし、ヒップな変わり種という見方は成立する。

例えば、もしこの軽くて愉しいサイレント映画(部分トーキー)がアカデミー賞作品賞を受賞すれば、第一回受賞作の「つばさ」以来、83年ぶりのサイレント映画の受賞ということになって、メディア的には盛り上がる。悪貨が良貨を駆逐する時代の、ひとつの形だ。本物を見失っている人間は日本ばかりではない。


ヌリ・ビルゲ・ジェイラン作品は、一切の前知識なしに鑑賞することを強く薦める。重厚ないい映画だと思う。演技陣も素晴らしい。しかし、監督が訴えたかったものは虚弱だ。おそらく、ジェイラン自身の家庭が崩壊したか、崩壊しつつあり、その心象風景を綴ったものではないか。

エリア・カザンの親たちの故郷アナトリアの12時間を記録したという点で、卓越した映像詩の要素もある。殊に、3台の警察関係車両のヘッドライトを中心とした序章60分の夜の風景画は見事だ。抑えた色調に、後半、徐々に赤系統が進出してくる。このあたりのカラー・デザインは彼の出世作の「ディスタント」を彷彿とさせる。無論、あちらでは赤が鮮やかだったが、こちらでは、屋根瓦とか、人体から流れ出るどす黒い血であって鮮度はない。

ぼくは、ドクターの頬についた黒い血のしみに、ジェイランの作家性を強く感じた。カンヌ映画祭でのパルム・ドールに次ぐグランプリの受賞(ダルデンヌ兄弟の “THE KID WITH A BIKE” とタイ)は当然であると思う。


「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」は一流のスパイ・スリラーだが、脚本と編集が二流だ。混乱に混乱を重ねている部分がある。演出のアルフレッドソンは両者へのコントロールが許されていなかったのか。もっとも、彼自身、「ぼくのエリ、200才の少女」でスウェーデン映画最大の過大評価を得たラッキーボーイであるからにして。コンビを組んだカメラのホイト・ヴァン・ホイテマーとともに、過剰に激賛されている。彼らは平均よりもほんのちょっと上の映画人に過ぎない。

一番大きな問題はマーク・ストロング演ずるフィールド・エージェント、ジム・プリドーの扱い。どう見ても死んだとしか思えない描写でエピソードが終っているので、中盤、教師として登場して来るくだりでだれもが回想であると思う。この映画、こういった回想が頻繁に出てひとつのリズムを形成しているので、これもまた回想と考えるのが当然なのだ。

トム・ハーディ演ずるもうひとりのフィールド・エージェント、リッキー・ターの紹介とフォローも驚くほど下手。ハーディが魅力的だけに、ここをリアルタイムで抑えきれなかった脚色の不手際が終始響く。

そうであっても評価が高いのは、ゲイリー・オールドマン演ずるジョージ・スマイリーの行動の軌跡だけははっきりしているからで、彼の最大最高の弱点、不貞淑な妻も、顔を見せずに点描されて、ここのバランス感覚だけはうまい。

とはいえ、「死者からの電話」でジェームス・メイスンとハリエット・アンデションが演じたスマイリー夫婦をしのぐものではないが。

オールドマンは、BBCのミニ・シリーズでスマイリーをやったアレック・ギネスの風格はないが、頼りなさそうな官吏がぐいぐいと真相を暴き出し局長レースに勝ち抜くという点では適役かもしれない。ただし、隠れゲイのベネディクト・クンバーバッチとのチームワークは、前記「死者からの電話」のメイスンとハリー・アンドリュースのわくわくするような関係ではない。アンドリュースにあたる役も登場するが驚くほど没個性的だ。

二重スパイ候補の4人は、際立った個性派を集めすぎて失敗。トビー・ジョーンズは最悪。コリン・ファースだけが格上だから、こいつの見せ場が終盤に絶対あるぞということになってしまい、謎解きにはならない。最終的な、スマイリーと二重スパイとの対決にしても、「その瞬間」がない。それでも高評価なのは、ブリティッシュ・インテリジェンスの世界が好きなんですね、ぼくは。


“DRIVE” は一言、ライアン・ゴズリングの魅力全快。「サムライ」のアラン・ドロン以上に「サムライ」的。主演男優賞は、ブラッド・ピットよりもジョージ・クルーニーよりも、ライアンにふさわしい。

レフンもハリウッドに押しつぶされず自分の暴力美学を貫いたのは立派。おそらく、ライアンが徹頭徹尾守ってくれたのだろう。

ただし。

デンマーク時代以上にグラフィックなアクションを要求される世界市場映画の観点から見ると、折角の仇役ロン・パールマンとの対決がもったいないくらいつまらない。人間観察にすぐれた「プッシャー」トリロジーではハンマーの一撃、ナイフのスラッシュで十分痛みを感じても、ここではそれではだめだ。ロン・パールマンとの対決は、ナ・ホンジン型のやり過ぎ激突でいい。車の激突はあんなものでも肉体の激突が全然足りない。

我がアニマルに匹敵するアルバート・ブルックスとの対決も、詰めを誤った。

つまり、アルバートは、完璧な仇役なのだ。

その残酷なユーモアも、奇妙なリアリズムとともに奏でられたあとでの、ふたりの最後のラブソング。これは、ギミックはいらなかった。時間軸をいじったつまらぬ編集は不要だった。観客はひたすらふたりの愛情あふるる殺し合いを眺めていたかったのに・・・。影に逃げるのはいい。時間で逃げるのはダメ。

THE DESCENDANTS。3世代レガシーなど「わが母の記」との共通項も多い。全編に流れるハワイアンのたるさが癒しにつながり、じわじわと感動に導かれた。素直にいい映画。


2012/01/21 (土)

映画に感性を充電してもらう。


イヴェントと時差ぼけが重なっていたので、パームスプリングスで見た映画は3本に止まった。アカデミー賞外国語映画部門フランス代表の “DECLARATION OF WAR”、イラン代表の “A SEPARATION(「別離」)” 、トルコ代表の “ONCE UPON A TIME IN ANATOLIA” である。「わが母の記」は最終上映を観客とともに見た。

外国語映画賞のショートリスト9本は先日発表され、イラン代表は入ったが、フランス代表もトルコ代表も落ちた。有力な落選組はフィンランドの「ルアーヴル」(アキ・カウリスマキ)、メキシコの「ミス・バラ」、我が友ナディーン・ラバキの監督2作目で、トロント映画祭の観客賞も受賞したレバノン代表「ここからどこへ行くの?」、そして南京大虐殺を背景にしたクリスチャン・ベイル主演、チャン・イーモウ監督の「フラワーズ・オヴ・ウォー」といったところか。

同様に日本軍が仇役となった台湾の「ウォリヤーズ・オヴ・レインボー」が入って中国が落ちたということで、業界ではちょっとした話題になっている。これは映画完成後、ベイルと中国当局との間に生じたトラブルが影響を与えているのかもしれない。

ノミネーションの5本、ぼくの予想では、イランの「別離」、イスラエルの “FOOTNOTE” ドイツの “PINA” カナダの “MONSIEUR LAZNAR” ポーランドの “IN DARKNESS” だろう。

LAでは「戦火の馬」に続いて、”DRIVE” “THE DESCENDANTS” “THE ARTIST” “TINKER TAILOR SOLDIER SPY” を見ることができた。

この8本、順位をつけるとトップがダントツで「別離」ということになる。


A SEPARATION。「別離」。

ネットでの日本語の紹介で「会話劇」と書いてあった。とんでもない間違いだ。会話劇というのは会話だけでプロットが展開してしまう動きのない映画だ。「別離」を「会話劇」と呼ぶならすべての探偵映画が「会話劇」になってしまう。

この映画は、「クレイマー、クレイマー」に匹敵する夫婦の訣別から始まる男女の戦いの大傑作だ。

あちらは1980年ニューヨーク・アッパーミドルクラスのカップルだった。こちらは現代イランのアッパーミドルクラスのカップルである。

あちらは子供の養育権をめぐる2世代の戦いだったが、こちらは3世代のレガシーがメインとなっており、さらには同世代の別家族、主人公一家=持つもの、に対抗する「持たざるもの」の家族三人を巻き込んでスリリングな人間ドラマが展開する。

一瞬たりともスクリーンから目を離すことができない。

ベルリン映画祭で作品賞のみならず、主演男優、主演女優のふたつの賞をアンサンブルで受賞したのも当然と言えるほど、全員が見事な演技を見せている。

手法は、レフンやスサンネなどデンマーク勢と同じハンドヘルドの細かいカットバック。アッバス・キアロスタミくそくらえの、スピーディな世界共通言語を持ったイラン映画である。

脚本・監督のアスガー・ファルハディは素晴らしい。稀有の映画作家だ。これ一発でファンになった。前作と前々作のDVDも購入したので、それらの作品もいずれは論じよう。


さて今回アメリカでぼくの感性充電作業を担った8本に順位をつけてみる。

1A SEPARATION (アスガー・ファルハディ)
2THE DESCENDANTS (アレキサンダー・ペイン)
3DRIVE (ニコラス・ウィンディング・レフン)
4TINKER TAILOR SOLDIER SPY (トマス・アルフレドソン)
5ONCE UPON A TIME IN ANATOLIA (ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)
6THE ARTIST (ミシェル・アズナヴィシアス)
7WAR HORSE (スティーヴン・スピールバーグ)
8DECLARATION OF WAR (ヴァレリー・ドンゼリ)

1がA+。23がA。45がA−。つまりここまでが年間ベストテンクラス。
以下、6がB。7と8がCということになる。


最下位作品は正直、アカデミー賞外国語映画のフランス代表に選ばれたことに首を傾げたくなる作品だった。女優転じて監督となったヴァレリーが自分の体験をもとに、実生活のパートナーと共同で脚本を書き主演している。癌に冒された子供を抱えた「戦争」の顛末を、逞しいユーモアとともに綴ったものだ。

アマチュアの元気には圧倒されるが、それは同時に感情の垂れ流しにも繋がる。とにかく抑制というものが一切なくて、「シェルブールの雨傘」カップルばりに歌い始めたりもする。子供が咳き込もうが平然とタバコを吸い続ける主役カップルのヘヴィスモーカーぶりにも嫌悪感が高まった。

子供の命を救うために「最高の医者を!」と叫ぶだけで「最高の医者」が手に入ってしまうあたりも、白けるばかり。フランス的と言えばあまりにフランス的。

去年代表となった名作「神々の男たち」がノミネーションに残れなかったことで毛色の変わったものを選んで来たのだろうが、この選定に激怒したフランスの監督たちは数多いだろう。


「アーティスト」は愉しい映画だがそれだけ。ジャン・デュジャルダンのダグラス・フェアバンクス型チャームとベレニス・ベジョの熱気は間違いなく二重丸。

が、ジェームス・クロムウェル、ジョン・グッドマン以下英語圏の出演者全員がお粗末。フランス人監督とのコミュニケーションが出来ていなかったのではないか。サイレントだからこそ、的確な演出が要求されるのに、ほったらかしにされて各自が勝手にやっている感じだ。1シーンだけのマルコム・マクドウェルなど無惨無惨。

こういう映画に作品賞を与えたニューヨーク映画批評家協会以下のグループにハリウッドの映画人からの蔑みの声が寄せられている。

我々映画人は過去の諸作を研究し、オマージュを捧げるなり盗むなりして自分のものにする。創意工夫を施す。「アーティスト」は徹頭徹尾、コピーの所産だ。オリジナルなものはなにもない。しかし、ヒップな変わり種という見方は成立する。

例えば、もしこの軽くて愉しいサイレント映画(部分トーキー)がアカデミー賞作品賞を受賞すれば、第一回受賞作の「つばさ」以来、83年ぶりのサイレント映画の受賞ということになって、メディア的には盛り上がる。悪貨が良貨を駆逐する時代の、ひとつの形だ。本物を見失っている人間は日本ばかりではない。


ヌリ・ビルゲ・ジェイラン作品は、一切の前知識なしに鑑賞することを強く薦める。重厚ないい映画だと思う。演技陣も素晴らしい。しかし、監督が訴えたかったものは虚弱だ。おそらく、ジェイラン自身の家庭が崩壊したか、崩壊しつつあり、その心象風景を綴ったものではないか。

エリア・カザンの親たちの故郷アナトリアの12時間を記録したという点で、卓越した映像詩の要素もある。殊に、3台の警察関係車両のヘッドライトを中心とした序章60分の夜の風景画は見事だ。抑えた色調に、後半、徐々に赤系統が進出してくる。このあたりのカラー・デザインは彼の出世作の「ディスタント」を彷彿とさせる。無論、あちらでは赤が鮮やかだったが、こちらでは、屋根瓦とか、人体から流れ出るどす黒い血であって鮮度はない。

ぼくは、ドクターの頬についた黒い血のしみに、ジェイランの作家性を強く感じた。カンヌ映画祭でのパルム・ドールに次ぐグランプリの受賞(ダルデンヌ兄弟の “THE KID WITH A BIKE” とタイ)は当然であると思う。


「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」は一流のスパイ・スリラーだが、脚本と編集が二流だ。混乱に混乱を重ねている部分がある。演出のアルフレッドソンは両者へのコントロールが許されていなかったのか。もっとも、彼自身、「ぼくのエリ、200才の少女」でスウェーデン映画最大の過大評価を得たラッキーボーイであるからにして。コンビを組んだカメラのホイト・ヴァン・ホイテマーとともに、過剰に激賛されている。彼らは平均よりもほんのちょっと上の映画人に過ぎない。

一番大きな問題はマーク・ストロング演ずるフィールド・エージェント、ジム・プリドーの扱い。どう見ても死んだとしか思えない描写でエピソードが終っているので、中盤、教師として登場して来るくだりでだれもが回想であると思う。この映画、こういった回想が頻繁に出てひとつのリズムを形成しているので、これもまた回想と考えるのが当然なのだ。

トム・ハーディ演ずるもうひとりのフィールド・エージェント、リッキー・ターの紹介とフォローも驚くほど下手。ハーディが魅力的だけに、ここをリアルタイムで抑えきれなかった脚色の不手際が終始響く。

そうであっても評価が高いのは、ゲイリー・オールドマン演ずるジョージ・スマイリーの行動の軌跡だけははっきりしているからで、彼の最大最高の弱点、不貞淑な妻も、顔を見せずに点描されて、ここのバランス感覚だけはうまい。

とはいえ、「死者からの電話」でジェームス・メイスンとハリエット・アンデションが演じたスマイリー夫婦をしのぐものではないが。

オールドマンは、BBCのミニ・シリーズでスマイリーをやったアレック・ギネスの風格はないが、頼りなさそうな官吏がぐいぐいと真相を暴き出し局長レースに勝ち抜くという点では適役かもしれない。ただし、隠れゲイのベネディクト・クンバーバッチとのチームワークは、前記「死者からの電話」のメイスンとハリー・アンドリュースのわくわくするような関係ではない。アンドリュースにあたる役も登場するが驚くほど没個性的だ。

二重スパイ候補の4人は、際立った個性派を集めすぎて失敗。トビー・ジョーンズは最悪。コリン・ファースだけが格上だから、こいつの見せ場が終盤に絶対あるぞということになってしまい、謎解きにはならない。最終的な、スマイリーと二重スパイとの対決にしても、「その瞬間」がない。それでも高評価なのは、ブリティッシュ・インテリジェンスの世界が好きなんですね、ぼくは。


“DRIVE” は一言、ライアン・ゴズリングの魅力全快。「サムライ」のアラン・ドロン以上に「サムライ」的。主演男優賞は、ブラッド・ピットよりもジョージ・クルーニーよりも、ライアンにふさわしい。

レフンもハリウッドに押しつぶされず自分の暴力美学を貫いたのは立派。おそらく、ライアンが徹頭徹尾守ってくれたのだろう。

ただし。

デンマーク時代以上にグラフィックなアクションを要求される世界市場映画の観点から見ると、折角の仇役ロン・パールマンとの対決がもったいないくらいつまらない。人間観察にすぐれた「プッシャー」トリロジーではハンマーの一撃、ナイフのスラッシュで十分痛みを感じても、ここではそれではだめだ。ロン・パールマンとの対決は、ナ・ホンジン型のやり過ぎ激突でいい。車の激突はあんなものでも肉体の激突が全然足りない。

我がアニマルに匹敵するアルバート・ブルックスとの対決も、詰めを誤った。

つまり、アルバートは、完璧な仇役なのだ。

その残酷なユーモアも、奇妙なリアリズムとともに奏でられたあとでの、ふたりの最後のラブソング。これは、ギミックはいらなかった。時間軸をいじったつまらぬ編集は不要だった。観客はひたすらふたりの愛情あふるる殺し合いを眺めていたかったのに・・・。影に逃げるのはいい。時間で逃げるのはダメ。

THE DESCENDANTS。3世代レガシーなど「わが母の記」との共通項も多い。全編に流れるハワイアンのたるさが癒しにつながり、じわじわと感動に導かれた。素直にいい映画。


2012/01/15 (日)

パーム・スプリングス遠征記。


初めてパームスプリングスに行ったのは1973年。ハワード・ホークスを取材するためだった。彼は病床のジョン・フォードの容態を気に病み、その数週間後にフォードはパーム・デザートで79才の生涯を閉じた。

ホークスは1977年12月26日にパームスプリングスで亡くなった。遺灰は彼がよくプレイをしたゴルフ場に撒かれた。

だからぼくはパームスプリングスへ行くとゴルフをする。今回は、DESERT WILLOWでラウンドした。「ラスト・サムライ」で共演して以来、親しく付き合っているスコット・ウィルソンと廻った。

スコットは「わが母の記」を見るために、わざわざLAから泊まりがけで来てくれたのだ。奥方のヘヴンリーも一緒だった。彼らは11日の第二回上映を見て作品を激賞してくれた。見終わったあとも、ルネッサンス・ホテルのバーで何時間も語り合った。前の晩のディナーはJOHANNESで一緒に食べた。ぼくが接待するつもりだったのに、逆にスコットにおごってもらった。


プロデューサーのブライアン・フランキッシュ夫妻もアリゾナでのファミリー・ビジネスを済ませたあと、12日朝の最終上映に来てくれた。

二回目の上映では250席の劇場はほぼ満席となり、最終上映もそれに匹敵する入りだった。最終上映の朝、5時45分にローカルのTV局に行き、ニュース番組に出た甲斐があった。その1時間後にはローカル・ラジオ、EZ-103のダン・マッグラスの番組に出て作品のことを話した。ダンの人柄のおかげでTV出演ほどには緊張しなかった。日本でもそうだが、ぼくはTVに出るよりも、ラジオに出る方が気が楽で、好きだ。

ブライアンとタニースの夫妻の反応も心にぐおんと響く熱さがあった。ブライアンの場合、最後の20分、泣き続けてシャツがびしょびしょになったそうだ。

タニースは、伊上家の一員となったかのように、「出演者たちに包まれて」見ていたそうである。本物の映画を体感した、と彼女は言う。

ハリウッドの多くの映画人に見せたいとブライアンは言ってくれている。ぼくたちは上映後にダウンタウンのLULUに行き、ランチを食べながら語り合った。

友人たちの掛け値なしの熱狂は生きる歓びだ。


パームスプリングスとLAで見た映画のレポートは帰国してからということで。


 a-Nikki 1.02