2008/05/19 (月)

カフケスクな日日。

「海辺のカフカ」を読み始め、読み終わるまでの一週間にいくつかの佳き知らせが入った。それらはいずれこのサイトでも書くことになるであろう。さらに、その一週間に何本かの唾棄すべき映画も見た。その一本をここに掲げ、切り捨てよう。


コンビニのトイレで鍵の開け方がわからなくなって携帯で110番する日本人、家の鍵が見つからないと110番する日本人が増えているという。それほど日本人、というか人類は劣化して来ている。中でも激しい劣化を見せているのが、「ミスト」の脚本を書き監督をしたフランク・ダラボン。

「ショーシャンクの空に」を作った気概はゼロ。モンスターをメタファーにしたいのならば登場人物にリアリティがなければ駄作となる。そういった中途半端なモンスター描写があり、およそ緊迫感と懸け離れた人々のリアクションがある。さらに、チープなカメラワークあり、チープな演技あり、とにかく駄作に必要なエレメントはたっぷり詰め込まれている。狂信的なアメリカン・コミュニティの稚拙な力学の縮図は、コンビニのトイレで110番する日本人には「深い」と感ずるのかもしれない。

どれほど惨めな展開になるか最後まで見守った。ひねりもロジックもなく、ひたすら不快なだけのエンディングは、もう、バカじゃねーの、の一言。唯一の拾いものはインプロバブル・ヒーローを演ずるトビー・ジョーンズの存在感だが、それにしても、彼の持つリボルバーの扱いに関しては随所に首を傾げたくなる演出が出て来る。

そもそも緊急時の人間の反応がすべてスローな演出で、C級ホラーのテンションすらないのだ。モンスターの攻撃に一定の法則がないのだからラストで主人公が絶望する理由もない。(破壊できないシャッターはぎゅうぎゅう押すが割れやすいガラスは攻撃しない。)

実は、主人公が絶望しなくてはならない「オチ」がついてはいる。が、これはノヴェラでは成立しても長篇映画では成立しない。映像でハラハラドキドキさせたあとのシニカルな絶望はヒッチコック・セオリーに反する。殊に子供を絡めると、大衆の不快感は限りなく増大する。そのセオリーと対決するのならば、圧倒的な様式美が必要なのだ。筋立ても映像も緻密なケアで高尚な映像芸術を目指さねばならない。この作品にはそういった気概も技術もない。

このオチのために主人公トーマス・ジェーンは先ず、丁度うまいぐあいに4発残った弾丸を撃たねばならない。そのあとで「スーパーマーケットのパニックおばさん第一号」と目線を交わすのだ。ところがこのおばさんを描いたエピソード自体が、唾棄すべきエピソードであり、演出も演技もお粗末なのだから、それをベースに作られた「オチ」にはなんのインパクトもない。そういう映画作りのイロハを、ダラボンがわかっていないということがこの作品最大の恐怖だ。きっとダラボンはポッズになってしまったのだろう。ポッズになった映画人の映画に心を動かされるのはポッズになった観客だけだ。

この映画を見た劇場での体験は不可思議なものだった。どんな映画でもエンドクレジットが始まると席を立つのがユナイテッド・シネマ豊洲のいつもの光景なのに、この日に限ってひとりとして立たない。三十人程度ではあっても奇妙な静けさで、全員が画面に「釘付け」となっている。エンディングに呆れたのなら語り合うカップルがいてもおかしくない。それが見えない。カップルはすべて、会話もなく、呆然とエンドロールに顔を向けている。

ぼくは奥まった座席で人の動きを待った。だれも動かない。エンドロールなかばで席を立ち、階段を降りて、スクリーン下を横切った。出口へのスロープを歩いてもまだ動く観客はいなかった。背中にさむけ。

正直な感想を書いておく。

その空間に残された意識の総体的なイメージは自殺願望だ。バカげた死を笑い飛ばせないものはささいなことで真面目に絶望し、やがて死ぬことを考えてしまう。

バカげた死を扱うバカげた映画は笑い飛ばそう。


2008/05/18 (日)

マイティ・カフカ。

「海辺のカフカ」と「海辺のカフカ」との間で世界は理不尽な様相をさらけだしていた。

ぼくが「カフカ」を読み始めたときはミャンマーのサイクロンで露呈した軍事政権への怒りで心はいっぱいだった。読み進むうちに四川大地震が起きた。何が起きても聖火ランナーを前進させる国家のメカニズムは天安門の国民ひとり対戦車の構図を思い出させた。世界を確実に悪くする政治は中国にもあるし日本にもある。ただし日本の政治家は三流だからどんな阿呆をしでかしても世界の屋台が傾くには至らない。我々日本人がつけを払わされるだけだ。

ロシアはロシアでプーチンが本性をあらわしつつある。アンナ・ポリトコフスカヤに代表される熱血と正義のジャーナリストの理不尽な殺戮の真実が明かされる政治体制はますます遠のいている。アメリカには希代の悪党がいるわけで、今はやたらとヒラリーの往生際の悪さが気にかかる。首斬り朝右衛門の美学を台なしにした高橋お伝の往生際の悪さに匹敵するものだと思って、ぼくは眺める。

これでもしヒラリーが大統領になってしまったら、その往生際の悪さがスタイルになる。外交にもそれが出て来る。何があっても言い出したことは引かない猪武者のような大統領だからブッシュ政権の傲岸不遜は継続して、世界は確実に悪くなる。

しかし、世界でどんな悪しき政治が行われていても、ぼくの精神は「海辺のカフカ」に救われる。2002年に出版されたこの村上春樹作品が世界でよく読まれている事実が希望にもつながる。日本から世界に放たれる感性の光。

今さらながら、村上春樹の物語世界にのめりこんでいる。この春は村上春樹への回帰の季節になった。

ぼくは二十年程前に「ノルウェイの森」に深く打たれ映画化を熱望して村上さんに手紙を書いた。そして、丁寧な、本当に、見事に丁寧な「お断り」の返事を受け取って以来、村上作品を手に取ることはなかった。読めば再び心が疼くであろうと思ったし、その手紙は未来永劫のノーではなくて、少なくとも今は、映像にしてもらいたくない、例えそれがスタンリーKのオファーであっても気持ちは変わらない、というような文面であったので、いずれ時がめぐって来るまでは離れていよう、と考えた。

時間はたっぷりあるのだ。世の中には他に映画化したい企画も、すべき企画も山程ある。

そろそろいいかな、という気持ちではなく、時代がぼくの首根っこを持って村上作品を読め、と強要した。それは、2005年に「海辺のカフカ」の英語訳が出てから顕著になった。世界のどこへ行っても村上春樹の話題が出た。村上春樹の影響を受けた欧米の作家が次々とデビューしていた。ハリウッドはそういったアジア的なエッジの利いた話題には殊に敏感だ。

そして、去年の暮れからぼくはデーヴィッド・ミッチェルの「ナンバー9ドリーム」の脚色と格闘し、村上春樹ランドのパラレル・ワールドにはまりこんでしまった。

ブリュッセル映画祭で再会した旧知のリュックは「ダンス・ダンス・ダンス」のオランダ語版翻訳と取り組んでいた。ヨーロッパでもっとも人気のある村上作品はなに?という問いに、リュックは「海辺のカフカ」と答えた。

おまけに7月に出版するぼくの小説の編集者も、かつて村上作品を担当していた業界のトップ・プロだった。村上春樹は左右前後にいた。もう抜けだせないのだからどっぷり浸ろうと覚悟を決めた。

しかし、いきなり「海辺のカフカ」に入ることに躊躇いがあった。中篇でリハビリしてから長篇に入るのが妥当だった。

文庫本の軽さに惹かれて選んだのは「アフターダーク」だ。「カフカ」に全力投球したあとの調整登板的な中篇で、実を言うと今まで読んだ村上作品の中でもっとも映画化に適している。

というのも、この作品はおそらく村上さん自身が脚本執筆の手法を実験的に取り入れているからだ。文中、「われわれ」とあるのは英語の脚本でカメラ目線を規定するのに使うWEであるとぼくは感じた。そして、映画で言えば、一番取り組みやすい「24時間もの」なのだ。ぼくが「バウンス」を書くときに意識した24時間の話であり、「憎しみ」や「アフターアワーズ」といった秀作にも通ずる世界だ。

元女子プロレスラーの「カオル」や逃亡者「コオロギさん」といったチャーミングな傍役が魅力的な言葉をまき散らすところでぼくはノックアウトされた。では、世間一般ではどんな書評が流されているのか興味を持ってネット・サーフをした。そして、「世を倦む日日」に行き当たった。

「世を倦む日日」というのは一日に5000から10000といったアクセスのある「本と映画と政治」の人気評論サイトだ。最近はもっぱら時事評論がメインで本の話も映画の話もないが、2004年の開設当初は本と映画が主流だった。

「アフターダーク」は「海辺のカフカ」で圧倒されたあとの作品ということもあって不満がいっぱいといった書評ではあったが、面白かったのは時事評論だ。中でも、光市母子殺害事件裁判に於ける本村洋さんの戦いの支援論文は圧巻だった。正義を信奉するものの論陣に感動し、4時間かけて過去ログを読みあさった。

このテサロニケ4さんはバランス感覚あふれる闘士であり、その熱血とロジカルな文体は長く海外で生活した人の教養に満ちている。とある集会に出席したときの写真が福島瑞穂社民党代表のサイトにあるというので、わざわざそちらまでお邪魔して拡大鏡で出席者の顔をひとりひとり眺めたほどだ。無論、わからなかった。面が割れたら即危険な日日という過激な発言も随所にあるから、当たり前のことだが。

そういうワンクッションもトゥークッションもあって、「海辺のカフカ」に到達した。

新潮文庫版の上巻は各章を味わいつつ時間をかけて読んだ。下巻は一気に加速した。昨夜、ベッドに入って90分、朝起きて90分、昨日「厄病神」クロダで負けたドジャースが堂々と勝ったのを確かめて午後、3時間ストレートで15時45分に読了した。素晴らしい物語展開とキャラクターに魅了され続けた。

上巻で泣いたのは二度ほどだったが下巻では四回泣いた。そして、コンスタントに笑った。このユーモアが、「ノルウェイの森」以前とは格段に違う。

無論、映画化を熱望するものではあるが、他の小説とはちょっと違う考え方を持ちながら読み終わった。それはこういうことだ。村上さんが映画化を望むのならば援助をしたい。共同脚本、共同監督といった形でも構わない。とにかく、準備の段階から撮影まで、原作者が現場にいる形式をとるべきだとぼくは感ずる。

もしもぼくがイニシアティブを握って作るとしたらどうするか。その方法論はいくつかある。原作に忠実にやりたいゆえに、ナカタさんのエピソードだけで通す手もある。そう。田村カフカは殆ど出て来ない。というのは、カフカ少年のキャスティングが至難だからだ。ふたつある話、影の半分をとりあえず切り捨て、ナカタさん関係で物語を組み立て、星野青年とナカタさんのふたりが主役として動く。これはある意味で「KAMIKAZE TAXI」の達男と寒竹さんの関係だ。ナカタさんを通じて、大島や佐伯さんに会い、最後にちらりとカフカ君の存在を感ずる。そして、一本の映画を作り上げ、公開してから田村カフカのオーディションを大々的にやって、小説で言えば奇数章のカフカの物語を撮る。それもまた一本の映画として公開したのち、両者を合体させて、5時間の作品を編集する。

ま、そんなことはミッション・インポッシブルだけど、そういう特異な作り方をすべき作品なのだ。殊に、ナカタさんと星野青年は、キャスティングが比較的簡単だから。ピンポイントで、このイメージじゃなきゃいけない、という配役ではない。

ぼくはナカタさんを、役所さんがやってもいいと思ったし橋本じゅんを老けさせたイメージでもいけるかな、とも思った。他にも何人かのイメージを思い浮かべた。

星野青年は、この小説の中で一番の儲け役で売れ筋演技派の若手ならばだれもがやりたがるメインだ。カフカ、50代の佐伯さん、15才の佐伯さんは非常にむずかしい。大島もまた難物だが、カフカほどにむずかしくはない。


2008/05/07 (水)

変。とても変。

日本経済新聞に依頼され、日本大学国際関係学部で教えることになったMY EXCUSEを書いた。上中下の三回分。

2日の夕刊に載った「上」篇に一ケ所意味が通じないところがある。それを、昨日の日米比較文化のクラスで社会人聴講生から指摘された。井上靖作品を読みこなしている人には即座にわかる間違いである。問題の掲載箇所はこうなっている。

サンプルA
「夏草」は幼年時代だから、今度はおれたちの沼津中学体験を書いてくれ、といったかつての同級生たちの声がベースにある。

「夏草」というのは文豪井上靖先生の「少年時代」を綴った「夏草冬涛」のことである。エッセイの骨子は、大学で教えるきっかけになったのは文豪の作品群との再会が根底にあることを書いている。問題箇所のぼくが送付した文章は出だしが違う。

サンプルB
「夏草」は、幼年時代を書いたのだから今度はおれたちの沼津中学体験を書いてくれ、といったかつての同級生たちの声がベースにある。

いい文章ではないが、新聞の字数制限があるためにこのような表現を取った。前文と併せて読めば意味が通ずると確信したからだ。その前文はこうである。

「しろばんば」は完成度の高いこん身の自伝である。

つまり、説明過多の文章が許されるならば続く文章はこういう書き出しになる。

サンプルC
続編の「夏草冬涛」は、「しろばんば」で幼年時代を書いたのだから(以下同文)

著者校正はやった。ただし、ぼくの書き方が曖昧だった。つまり、送られて来たゲラはサンプルAの「幼年時代」と「だから」の間に「を」が入っていた。「を書いたの」と入れなければ意味が通じない。句読点も含めて元に戻せ、とはっきり指摘すればよかったのだが、そうは書かなかった。

「幼年時代をだから」の文章を修正、とのみ書いたのだ。

前提として、相手が「しろばんば」=幼年時代、「夏草冬涛」=少年時代前期、という区分けが出来ていると思っていたのだ。つまり、責任はぼく。

故に、掲載紙を読んで愕然としたものの抗議などしなかった。しかしながらわかる人にはわかるわけで、しかも間違いを指摘して来た生徒から「訂正文は出さないのですか」とまで言われてしまうと、新聞で「お詫びと訂正」はできなくとも自分のサイトで「お詫びと訂正」だけはすべきであると、ここに長々と書いた次第。改めて、井上靖作品のファンを混乱させたことをお詫びいたします。続く「中」と「下」ではこのようなことが起きないように厳正に校正をいたします。

というわけで、昨夜、著者校正に廻って来た「中」の原稿にも字数調整のための省略やら書き換えやら色々あったので全面的に書き直して送り返した。

さて、「とても変」と感じたのはこのこととは無関係だ。それをこれから書く。

昨日は世間一般では振替休日であったが国際関係学部では授業があった。朝の新幹線はがらがらだったが、帰りが連休最終日ということもあって混雑が予想された。回数券も使えないのでハナから自由席は諦め、指定席券をあらかじめ購入しておいた。授業が終わるのが14時半だから、15時以降で最初に取れる座席を買った。それが、19時55分三島発のひかりだった。

時間があまったので、15時から18時までをオフィス・アワーとして本館三階のオフィスで過ごした。訪ねて来た生徒と雑談をして、それなりに有意義に過ごすことは出来た。夕食は沼津で食べようと決意し、18時6分発の鈍行で沼津へ向かった。6分後、沼津駅改札を出た。街は閑散。連休の最終日とも思えない。

問題は何を食べるか、だが、「北口亭」の餃子は二週間前のゴルフ帰りに食べたばかりなのと18時過ぎでは売り切れにつき閉店の可能性大なので選択肢にはなかった。

狙いは「さがみ軒」の冷やしラーメンである。あんかけのタレで食べるこの店オリジナルの味で、万民に奨める料理ではないが、ぼくにとっては故郷の、幼年時代の味覚のひとつだ。これは、大概の人が、初めて食すと怒る。本気で怒る。静岡県西部の人間が美味と考えるたくわん入りのお好み焼きと同じくらい「なんだこれは!」の食べ物である。しかし、まんじゅうの天麩羅をそばに入れて食べる福島県民の風習には近いかもしれない。甘さと醤油味の微妙なせめぎあいが根底にある。

この冷やしラーメンと似通ったアプローチで、沼津にはもうひとつの名物がある。雅心苑の雅心団子だ。これはおやつ感覚だから撮影中にクルーやキャストに配っても大好評となる。冷やしラーメンはそうはいかない。細かなガイダンスと心の準備が必要となる。

要は、「なんだこれは!」の初体験でもとにかく食べなければいけない。残すな、とは言わないが、少なくとも60%、時間にして15分、この味に浸っておくのである。すると、不思議なことが起きる。

翌年、冷やしラーメンの季節が来ると、世間一般の冷やしラーメン、あるいは冷やし中華を食べている最中に甦って来るのだ。「さがみ軒」の味覚が。

あれは一体なんだったのだろう。純粋行動系の食通は「さがみ軒」に回帰する。そして、冷やしラーメンと再会し、う、うまい、と思うのである。

とはいえ、「さがみ軒」は本来の醤油ラーメン、五目かたやきそば、蟹入りチャーハンという御三家が健在で、昨夜も、ぼくはギャガ宣伝部に地方キャンペーンまでに5キロ体重を落とすと宣言した身でありながら冷やしラーメンとチャーハンを食べてしまった。

で、これも「とても変」な話ではない。


理解不可能な現象はその後、出現した。

新幹線の時間までなお1時間以上あったので生まれ育った沼津市大手町110番界隈を散策することにした。生家跡地はずっと昔に駐車場になったことは承知していた。そこへ達するべく、さがみ軒を出るとぶらぶら歩いて城岡神社に達した。

神社の前でぐるりと見渡すと、幼少時の思い出があるのは田沢病院のみで他は駐車場ビルになっているので驚いた。ひょいと覗くと城岡神社の地下も駐車場になっている。「なんじゃこれは」とつぶやき、田沢病院の十字路を、一才年上だったノリコ様(だっけ?)との胸がどきどきするかくれんぼのことなどを思い出しながら左折して再び「なんじゃこれは」の十字路に出た。

東海バスの跡地が巨大駐車場ビルになっている。ここを右折して角から保険会社の沼津出張所、沼津税務署、我が生地&聖地「美家古」旅館と続いたのだが、唖然。

こちらも駐車場ビルだ。その駐車場と学校のビルに挟まれ、後方に沼津グランドホテルを擁する空間、スルガパーク24というサインのある何の変哲もない駐車場が、我が生地なのだ。

学校のビルがある十字路にもパーキングが出来ていて、大手町は一大パーキング・エリアに変貌してしまった。これはしばし動けなくなるほど、とても変な感じがした。区画は昔のまま。しかし、駐車場ビルが主役。その中で、ぽつんとひとつ、オープンのエリアが自分の生まれた場所。

変だ。とてつもなく変だ。


2008/04/30 (水)

ビ脚。

さすがに美脚とはいいにくいので。ビ脚のスラックス購入@伊勢丹。初夏のキャンペーン用ジャケットも三着。衣裳揃えて「クライマーズ・ハイ」へ準備万端。取材も明後日から本格的に始まる。ドジャースは4連勝中。エゲレスのプロデューサーから発注のあった脚本も昨日送付。日大三島の教授第二シーズンも始まった。日本経済新聞の教授生活コラム三回連載は5月2日の夕刊からスタート。9、16と続く。

「フィクサー」は前半ががたがた。脚本に問題あり。いくらクルーニーの芝居がよくても「評決」の香華なし。中途半端な情報を詰め込んで初監督作の弊害たっぷり。ティルダ・スウィントンの芝居も平均点。なにより巨悪を背負うねーちゃんに見えない。キャラはあれでいいんだよ。背景が薄いの。4人の敵相手にクルーニーが奮闘しているようで寒い。トム・ウィルキンソンも演技的には巧くてもシドニー・ポラックの法律事務所のエースに見えない。ロフトに住んでいるキャラにも見えない。

4月のマツイはヒデキではなく松井冬子にぞっこん。静岡県からこれだけの天才&美女が輩出されたことをまったく知らなかった。たまたまNHK教育のドキュメンタリーを見て先ず美しさに仰天。その幽霊画にも魅了される。ただし、番組が強調しているような「痛み」などこの人にはない。痛点がどこか欠如しているからあれだけの作品を描ける。戦略と高度な技術。ネットで調べるならば母校での彼女の講義が面白い。いずれにせよ、彼女をフィーチャーした番組を作るならば本人が己れの顔を塗りたくるところから撮らねばだめ。厚化粧の筆つかい、細密画の筆つかい。興味津々。


2008/04/30 (水)

ビ脚。

さすがに美脚とはいいにくいので。ビ脚のスラックス購入@伊勢丹。初夏のキャンペーン用ジャケットも三着。衣裳揃えて「クライマーズ・ハイ」へ準備万端。取材も明後日から本格的に始まる。ドジャースは4連勝中。エゲレスのプロデューサーから発注のあった脚本も昨日送付。日大三島の教授第二シーズンも始まった。日本経済新聞の教授生活コラム三回連載は5月2日の夕刊からスタート。9、16と続く。

「フィクサー」は前半ががたがた。脚本に問題あり。いくらクルーニーの芝居がよくても「評決」の香華なし。中途半端な情報を詰め込んで初監督作の弊害たっぷり。ティルダ・スウィントンの芝居も平均点。なにより巨悪を背負うねーちゃんに見えない。キャラはあれでいいんだよ。背景が薄いの。4人の敵相手にクルーニーが奮闘しているようで寒い。トム・ウィルキンソンも演技的には巧くてもシドニー・ポラックの法律事務所のエースに見えない。ロフトに住んでいるキャラにも見えない。

4月のマツイはヒデキではなく松井冬子にぞっこん。静岡県からこれだけの天才&美女が輩出されたことをまったく知らなかった。たまたまNHK教育のドキュメンタリーを見て先ず美しさに仰天。その幽霊画にも魅了される。ただし、番組が強調しているような「痛み」などこの人にはない。痛点がどこか欠如しているからあれだけの作品を描ける。戦略と高度な技術。ネットで調べるならば母校での彼女の講義が面白い。いずれにせよ、彼女をフィーチャーした番組を作るならば本人が己れの顔を塗りたくるところから撮らねばだめ。厚化粧の筆つかい、細密画の筆つかい。興味津々。


 a-Nikki 1.02