2007/12/08 (土) 続「荒野の決闘」
■前日分から続く。
クレメンタインの部屋を「死んだチワワの部屋」などと勘違いしてしまうギットであるがゆえに、このドキュメンタリーで語られていることは疑いをもって接した方がいい。例えば、プレヴュー版(以下PV)がもともと30分以上長かったというコメント。監督たるぼくの目から見て、ミッシングのショットやエピソードはあるかもしれないが、どう考えてもこの104分ヴァージョンに20分以上足せるシーンがあったとは思えない。2時間を超えるヴァージョンがあったとして、それはラフカットではなかったのか、というのが素朴な感想だ。
ラフカットをさらに編集したものを6月のプレヴューで見せているとしか思えないのだ。そのときの2000人の反応に触れて、ザナックは7月にハサミを入れたりリテイクをしたものと思われる。
要は、フォードもPVの編集は必要だと感じていた。これより二年前の「怒りのぶどう」も最終的にはザナックの感性で編集されて名作としての位置を確立しているのだ。しかし、「荒野の決闘」に関する限りFV(ファイナル・ヴァージョン)はフォードの思惑をはるかに越えた改変がなされた。監督が理想とするヴァージョンが97分のFVではなかったことは明らかである。
■おれが教えている日大国際関係学部のクラスのひとつで、このドキュメンタリーを見せて生徒の意見を聞いた。このクラスでは日米比較文化論として田草川弘著「黒澤明VSハリウッド」を教材に使いながら、「暴走機関車」と「トラトラトラ」に於ける黒澤明のアメリカ進出失敗を論じている。常時出席する生徒は9名程度の小さなクラスであり、いわゆる映画ファンはひとりもいない。それでも黒澤明の時代を論じるプロセスで過去の黒澤作品を自主的に何本か見て、さらに黒澤の心の師匠としてのジョン・フォードのことも理解している。しかし、フォード作品を見たものはひとりもいない。そういう生徒たちにPVとFVの違いを論ずるドキュメンタリーを見せたら、どちらのヴァージョンを好むだろうか。
■ギットが語る比較のポイントは以下の10ケ所である。最初に弟ジェームスの墓地に詣でるワイアットのシーンが撮り直されたことが語られるが、ここでは撮り直し以前の映像がないために比較にならず生徒たちの感想は省いた。
@ PV/リンダ・ダーネル演ずるチワワがサルーンでバーテンと話したあと外へ出て駅馬車到着を眺める。そこへジョン・アイアランド演ずるクラントン一家の末息子ビリーが現われ、彼女に言い寄る。が、彼女はBe a good boy Billy.と軽くあしらいサルーンに戻って歌の最後のフレーズを歌い、アープのポーカーテーブルへ近づく。FV/バーテンと話したチワワはそのままアープのポーカーテーブルへ。中間部分はすべてカット。
A アープとドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)のサルーンでの最初の会話。PVではシャンペンの味をアープが酸っぱいと批評する。FVではそのくだりがない。
B 劇場。PVでは情景カットが多く床屋の椅子に関するジョークがあり。
C 翌日の駅馬車到着。PVではマンション・ハウス(ホテル)の前にデッキを歩いてやってくるアープと椅子との最初の出会いがあり、駅馬車到着時間に合わせてポーリーンとアリスというふたりのウェイトレスが所定に位置につき鐘を鳴らす素晴らしい朝の情景がある。FVはここを殆どカット。駅馬車が到着すると、ギャンブラーに続いてキャシー・ダウンズ演ずるクレメンタインの登場。PVでは音楽が最後に静かに入り込むだけ。FVは日替わりのショットから浮き浮きのメロディを流し、クレメンタイン登場から「マイ・ダーリン・クレメンタイン」を流しシーンのラストまで引っ張る。
■D クレムとドックの会話でFVはリテイクで短縮している。ここで「私からは逃げられないのよ」の字幕が入るのだが、ここは、Please John. You cannot send me away like this. You cannot run away from me any more than you cannot run away from yourself.というオリジナルの心情を大事にしなければいけない。充分に間はあるのだ。
E 日曜の朝、FVでは鐘の音のみでアープのヘアスタイルをめぐって床屋との会話。PVは町に到着する人々のショットがあり、「おおスザンナ」が流れる。そして床屋との会話に。
F チワワに金袋を投げて駅馬車で去るドックのシーン。PVは音楽なし。FVは劇的な音楽がシーンいっぱい続く。
G チワワの手術シーン。ドックが手術を始めるところで、FVはワイドに切り換え、チワワの呻きを聞かせてシーンは終わる。PVではドックが手術を始める前に顔を上げ「ミス・カーター」と看護婦のクレメンタインを呼ぶ。すると、クレムのクロースアップになり、彼女はReady Doctor Holliday.と応じて手術台に進み出る。カメラはそのままクレムの後方にいたアープに残る。
H 決闘の後、FVではドックの死体を兄モーガン(ウォード・ボンド)とともに見下ろしたワイアットは何も言わず去って暗転。フェイドインで、フェンス脇のクレムとの別れに繋がる。PVでは、ドックの死体を見下ろしたワイアットが一言、I'll get his boots.といい去る。カメラはモーガンに残る。フェイドインすると、場面はホテルの前。町長を始め、ポーリーン、アリスなど町の人々とアープ兄弟の別れがある。そこで、ワイアットは二階の窓、クレメンタインの部屋を見上げ、顔を見せてもくれない彼女への思いを断ち切るように馬を走らせる。そして、ディゾルブで、フェンス脇で佇むクレメンタインを登場させるのだ。
I 最後のクレムとアープの別れ。PVでは終始ふたりは2ショットで、思いのたかぶったアープが一歩前へ出るのだがキスはせず握手の手を差し出すのみ。ザナックは、ここで2000人のプレヴュー客を裏切ったと断言し、クレメンタインなめのアープを撮り足して頬に口づけをするFVを作った。
■これらの違いに対する9人の生徒たちの反応は非常に興味深いものがあった。意見は5対4とか6対3といった割れ方が多かったが、二点だけ、8対1と極端に意見が分かれたところがある。CとGである。そして、どちらも、多数派はPV、プレヴュー・ヴァージョンに軍配を上げた。端的に言えば、音楽は控えめでシーンは長め、という選択なのだ。
全体の出来として、PVとFVとどちらが好みか、という質問には、PV6FV3という結果が出た。これはギットの結論とは違う。
ではおれの意見は、というとーーー。
先ず@。これはPV。短くしてもよいポイントだがビリーを印象的に見せるのはここしかないので、というのが理由。ただし、ギットが挿入した駅馬車到着ショットは不要。というか、入れてしまうと位置の混乱を招く。駅馬車はサルーンの前を通過して次のブロックのホテルに着くのだから。A、BはFV。単純に、長めの会話がポイントレス。殊に、床屋のジョークはフォードが面白がっているほどには面白くない。傷を見せるマチュアの芝居もうまくない。
Cは複雑だ。シーンとしては断然、ポーリーンとアリスがアープに挨拶するPVの方がいい。ここの朝の雰囲気がジョン・フォードの真骨頂なのである。椅子との最初の出会いもこれだ。基本的に音楽は控えめな方が好きなのだが、クレメンタイン登場に関しては、やはりノスタルジックな思い入れが強く、テーマを流したいと思う。というわけでPVとFVのミックスではあるが、どちらかひとつを選べと言われたら長めのPVを選ぶ。
さて、このくだりで日本人西部劇ファンの書き込みに「ギャンブラーの存在がわからない」というのがいくつかあった。これは本当の西部劇ファンなら疑問でもなんでもないのだが字幕の稚拙さもあって混乱が増長されてしまうようだ。このギャンブラーの存在は、アープの業務、として必要なのだ。駅馬車が到着するたびにタウン・マーシャルたるものチェックを入れなければならない。殊にトゥームストーンは「無法の町」として評判を呼んでおり、イカサマ賭博師の類いを呼び寄せる。マーシャルになったばかりのアープとしては水際でこういった輩を選り分け、速やかに追い払わねばならない。しかも、アープに「ミスター・ギャンブラー」とアドレスされた男はライフルを片手に持っている。要は、「兄弟はいるのか?」といった字幕をここでは敢えて「連れはいるのか」と訳すようなケアさえあれば混乱は避けられると思うのだが。
■DはFV。PVのドックは喋り過ぎ。Eはどちらでもいいが、FV。Fはどちらでもいいが、うるさい音楽はない方が今の気分にはあっているのでPV。
問題はGである。
これは、映画の達人ザナックがなんで削ったのかわからない。先ず、ドックとクレメンタインのやりとりだが、この短い会話があって初めてクレメンタインの長い捜索の旅は完遂するのだ。ここで、彼女のプライドは報われた。次の人生に進むことができる。だから、ドックに呼び掛けられて「準備はできています、ホリディ先生」と答える彼女は晴れ晴れとしている。その彼女が手術台に移動してカメラはワイアットに残る。表情は暗部ゆえ見えない。ややあって、彼が俯くと我々はワイアットの憂いをプロフィールで眺めることになる。そして、引きサイズに繋がる。
実に美しい、作品の臍といってもいいショットだ。ここを落としたという一点で、ザナックはフォードに負けたと言える。このショットのない「荒野の決闘」に感動していたとは!
おれはショックでその晩眠れなかったくらいだ。当然ながらこのシーン以降、おれは全面的にPVをサポートする。アープがドックの遺体を前にしての一言、「ブーツはおれが取ってくる」は、西部男の束の間の友情の帰結として実に適確だし(墓地のことをブーツヒルと呼ぶのは西部劇ファンならば先刻承知)、朝の別れはひとつの世界を作り上げたフォードの業績を謳うためにも必要だ。むろん、キス・シーンを撮り足すなど言語道断。これだけの素晴らしい失われたエピソードを前にして、ザナックが手を加えたFVを「最高の形」と言い切るのは不遜だ。
さらに、付け加えたいのはこのPVは何らかの形で部分的に陽の目を見ているという点だ。ギットが迂闊にも触れなかったビリーを追うヴァージルの落馬(PVにあってFVにはない)も、@のチワワに言い寄るビリーも、そして別れのキスをしないアープも、おれは以前見た記憶がある。ギットがドキュメンタリーで言っているのはリバイバルやTVで放映されたのがFVということであって、それらと比較して「削除された」と思しきものを復活させたのがPVなのである。日本で公開されたヴァージョンが、FVでもなくPVでもないプリントだったことも充分考えられる。おれは、中学生のときにリバイバルの「荒野の決闘」を沼津東映パラスで見て以来、LAやロンドンの映画館、あるいはTV、ヴィデオで十数回見ている。それらがずべて同じヴァージョンだったとは思えない。
しかし、見直せば見直すほど、この特別版の日本語字幕には呆れる。決闘に赴くときのアープの一言、Got everything straight?が「いいか」ではふざけるな、だ。これは「手順はわかったな」だ。そういう策略の確認をして、オールド・クラントンの「ドクもいるぞ」に繋がる。
今や、先達の大きな誤解「OK牧場」を修正すべき時代であるのに「OKコラル」は不当に訳されたままだ。コラルを牧場と呼ぶのは明らかな間違いなのだ。初めて「荒野の決闘」を見て「OK牧場で待っているぞ」という台詞に接した日本人映画ファンは混乱するだろう。どこに牧場があるのか、と。ここを修正する一歩から踏み出さねば「特別版」の意味はない。
■MATSUIIIIIIIIIIIIIII!
サンフランシスコになんか行かないでくれえ!
ドジャースへ来てくれ、と言いたいが、もうアンドルーを取っちゃったもんなあ。外野は大混雑だしぃ。
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