2006/03/15 (水) オゾン浴。
■先週末、オゾン浴をした。心も体も疲れているときにはこれが効く。18日の土曜日も、オゾン浴そのがあるから6時間頑張ってみよう。
ぼくのオゾン浴はプールサイドで始まった。
「スイミング・プール」だ。信頼すべき知人たちが褒めていたし劇場へ足を運ぶつもりでいた。LAで上映した時も、東京でも。なぜか外してしまったのは監督のフランソワ・オゾンがゲイを「売り物」にしているというイメージを持ってしまったためかもしれない。「ゲイの監督のゲイ趣味のミステリー=うーむ、趣味ではないな」の愚かな公式だ。
「スイミング・プール」は単純に傑作スリラーだ。シャーロット・ランプリングとリュディヴィーヌ・サニエという世代の違うふたりの女優が素晴らしい。フランソワ・オゾンの演出は死体処理のくだりでやや勿体無いはしょりがあるが、ディテール細かく繊細で、女の心と体のひだひだをエレガントに描き出す。
フランスの田園を舞台にした映画には、少ない登場人物が風を感じ緑を愛でる傑作が多いが、これはまさにその極め付けの一本。カンヌのコンペで受賞しなかったのは、明らかに審査委員長の偏見だ。そのリタリエーションとして、ヨーロッパ映画賞ではランプリングが主演女優賞を取っている。本当に、この作品でのランプリングは完璧な性を演じている。初老の人気ミステリー作家サラ・モートンの、英国的な、近づくものを拒絶し避けるものを求めるシニカルな性を。
完璧だから見ていて飽きない。コンピュータの電源を差し込む体の動きから田舎のカフェで木々を伝わる風と光りを浴びる表情まで、わくわくする。
そこに闖入するサニエの若い肉体と正しくセクシーな声質としっかりと相手を捕らえる眼差がこれまた完璧なケミストリーを醸し出す。
■ぼくはサニエに一目惚れをする。彼女の「仕返し」のプランがあいまいなまま殺人につながってしまうところが「死体処理」とも絡むマイナス点だがこれには一応女たちの共闘という見事なオチがついていて、終盤の彼女の独白は泣かせる。これに応えるランプリングのアクションはテンポよくはしょって正解。
映像タッチは自然派で芝居もナチュラルだが、ところどころ入る幻想がいいスパイスになっている。
プールサイドの幻想は、三つ出て来るが、ふたつはそれぞれにオチというか、答が用意されていて、最後のひとつは、エピローグの味付けということもあって如何様にでも解釈できる。殊に、チャールス・ダンス演ずる出版社社長の娘ジュディをそこに配置したことは読み解くミステリーの提示につながる。それが、消化不良を起こす評価もあるようだが、ぼくは極く単純に解釈した。忘れなかったらオゾン浴その2のあとにでも書こう。「スイミング・プール」ファンはそれぞれの解釈をそれまでに書いてくれればいい。
シネフィル・イマジカで「スイミング・プール」が始まったのは夜の9時。それから6時間、ぼくはオゾン浴を続けた。
■2本目は67分の短編集。この中にはぼくがヨーロッパの映画祭に招待された時見た短篇も含まれていた。フランスのヴァレンシエンヌだったかベルギーのブリュージュだったか、正確には思い出せないが、「黒い穴」だけは見た記憶がある。おフェラをしながら「ラ・マルセイエーズ」を歌う娼婦を買った男の話だ。60年代フィルム・ノワールの色調がしゃれていて(わかりやすく言えば「ブルー・ベルベット」みたいな)記憶に残っていた。
この94年から98年にかけてオゾンが発表した短篇を見ると、彼の資質がよくわかる。一言で言うなら、彼の真骨頂は「ベッドの上の真実」だ。ゲイであろうがなかろうが関係はない。彼はベッドの上で人間が見せる真実を描くことができる。故に、彼の主要な劇的空間は「寝室」。故に、演技は自然でリアルな饒舌。94年の「アクション・ヴェリテ」はふたりの少年とふたりの少女の「寝室」とおぼしき「だれかの子供部屋」での性への関心をクローズアップの会話だけで綴った秀作。4人の子供たちのキャスティングも表情も見事。もっとも感心したのは95年の短篇「小さな死」。これは、その後「黒い穴」の主役も務めたフランソワ・ディレイユ(?)がオゾンのアルターエゴを演じ、父の死と姉との対話を受け入れる。フランソワとボーイフレンドのベッドシーンからカミーユ・ジャピー演ずる姉の表情まで、ここでのオゾンは既に成熟した映画作家の矜持を見せている。28才のころの作品だ。
次に見たのが98年の長篇デビュー作「ホームドラマ」。こんな解説っぽい邦題をつけず、原題の「SITCOM」のままでいいと思うのだが、まあいい。ジェーン・キャンピオンの長篇デビューとも相通ずるブラックな家族のドラマ。色使いは誇張した原色系が多いが、芝居はナチュラルが基盤であることには変わりはない。配役はTVでよく知られたヴェテランを60前後の父と母に配し、彼らがフランスのTVで築き上げたであろうすべてのイメージを壊す役どころを演じさせている。このふたりの極めてコントロールされた名演と、本物の姉と弟を使った子供たちの組み合わせがところどころに凄みを出す。姉のマリア・デ・ヴァンはかなり個性派で、この作品だけではあまり魅力を感じないが、ライターであり監督であり、このころのオゾンにとっては「よき仲間」の感じはある。最後まで見続けたのは、やはり、ベッドの上のキッチュな真実にある程度の面白みがあったからと、それに続く本日のトリの一本を見たかったから。
■トリは2000年度作品の「焼け石に水(が落ちる)」。ライナー・ウェルナー・ファスビンダーの若き日の戯曲を映画化したオゾンの長篇三作目だ。なぜ見たかったと言えば、4人の登場人物のひとりをリュディヴィーヌ・サニエが演じているから。が、サニエは終盤のアクト。まで出て来ない。それまでは、50代のバイセクシュアルなベルナール・ジロドーと、若い愛人マリック・ジディふたりだけの会話劇だ。これが、すごい。ランプリングとサニエの組み合わせに匹敵する組み合わせだ。ジディの初々しいゲイぶりも見事だが、ジロドーの、持つものの奢りも色気もすべてひっくるめたぎらつくおじさんゲイが圧巻だ。導入部からジロドーに見愡れた。
ぼくはファスビンダー作品を「勉強のため」70年代のロンドンやベルリンで見たが、どれも面白くはなかった。その後も、ファスビンダーという存在への興味はあっても惹かれる作品はない。が、オゾンの手にかかって、ファスビンダーの才気が生きた。殊に、アクト氓ニでの、誘惑の入口と出口の男性カップルの温度差は一言一言が見事だ。
結局、サニエは添え物でしかなかった。当時21か22のナイス・バディをおしげもなくさらして典型的なカワイコちゃんを熱演しているが役者としての魅力には乏しく、ここから三年で、よく「スイミング・プール」のジュリーになれたものだと感心した。
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