2019/10/10 (木)

WHAT WENT WRONG? その弐。


やはり、ドジャースがお題目となったか。嗚呼。

9/9のブログで予想した通り、ドジャースはNLDSのGAME5でナショナルズに屈した。戦犯第一位はクレイトン・カーショーだ。以前予想した通り、ドジャースはカーショーがいる限りワールドシリーズ制覇を遂げることはない。彼は銀河系最高のエースであってもそれはレギュラーシーズンに限定される。このG5を見る限り、彼は早期引退を考えた方がいい。

戦犯第二位はハウィー・ケンドリックに満塁弾を打たれたジョー・ケリーではなく、ケリーを9回から続けて登板させたデイヴ・ロバーツの、明々白々の采配ミスだ。

ホームゲームで、延長戦に入って、クローザーを温存しておくバカ監督がどこにいるのか。それほどケリーを信頼して、クローザーのケンリー・ジャンセンに不信感を抱いているというのか。ケリーは前回の登板でワンアウトも取れない惨憺たるデキだった。それを、たまたま下位打線相手に3アウトを取ったからと、次の回まで引っ張るか?



ドジャースが3対1でリードした7回、2死1、2塁でカーショーを投入したときも、ロバーツの采配には疑問が残った。先発ビューラーは絶好調ではなかった。薄氷の思いで6回を3対1で投げ切っている。下位打線から始まる7回はそもそもマエダが投げるべきイニングではなかったか。マエダは、8回にカーショーがバック・トゥ・バック・ホームランを食らってから登板し、5、6、7番バッターを三振に取っている。このシリーズのマエダは無敵なのだ。7回をマエダが投げていれば、6、7、8番を三者凡退にしていただろう。

そうすれば、カーショーを8回に登板させて、9、1、2番と対戦させ、もし3番の打点王アンソニー・レンドーンまで廻っても、4番のフアン・ソトには左のスペシャリスト、コレアックを使うことができた。そして9回をジャンセンに委せればよかった。

7回までビューラーを続投させたために、いきなり先頭打者を死球で出塁させ、2死1、2塁のピンチを招いている。ここでリリーフ登板したカーショーは2番のイートンを三球三振に取ったが、8回にレンドーン、ソトに連続ホームランを献上し、3対3の同点にしてマウンドを降りている。



ここでもロバーツはミスを犯したことになる。つまり、試合終盤で連続してソトを討ち取っていたコレアックを投入せず、カーショーをソトに対戦させたことだ。1点でもリードして9回のジャンセンに繋ぐ、という大命題を忘れてしまったのだ。

9回を三者凡退で凌いだケリーは、なぜか、ロバーツの絶大の信頼を得て、10回のマウンドに上がり、先頭打者の2番イートンを歩かせ、3番のレンドーンにフェンス直撃の二塁打を打たれた。ここで当然降板と思いきや、ロバーツはケリーを続投させた。つまり4番の左打者ソトを歩かせ、無死満塁として5番のケンドリックと勝負させたのだ。左のスペシャリスト、コレアックを使わずに、である。満塁策を取るならソトをコレアックが討ち取った後だろう。常識的に考えて、ワンポイントのコレアックをソトにぶつけ、後をジャンセンに委せるべきだった。

この日のケンドリックは、実は、ナショナルズの負の象徴だった。守備ではシリーズ通算三つ目となるエラーがあった。この失策で生きたベリンジャーが盗塁して無死二塁のチャンスを作ったが、ドジャースは生かせなかった。致命的な走塁ミスもあった。汚名返上の最後のアットバットで、ケンドリックは渾身の満塁ホームランを放ったことになる。実は、ビューラー相手の打席でもケンドリックはセンター深くへ大飛球を放っている。これはベリンジャーの超ファインプレイでアウトになっていた。

いずれにせよ、7回以降のロバーツ采配はデザスター以外のなにものでもない。



ロバーツは確実にジャンセンの信頼を失った。フロントオフィスの信頼も失った、と言いたいところだが、戦犯の第三位がケリーとするなら第四位が、そのケリーとAJポロック2選手を補強の目玉として獲得した球団社長のフリードマンなのだ。ポロックはこのシリーズで13打数0安打の11三振。無残な助っ人だった。

我がコディ・ベリンジャーの不振も大きかった。19打数4安打。7三振。ホームラン0、打点0。シーズンMVPを争っていたレンドーンには大きな差をつけられた。MVPはレンドーンが取るべきだ。

ドジャースはシーズン最多の106勝をあげてディヴィジョン・シリーズで敗退するMLB史上初のチームとなった。5試合での三振数も新記録を塗り替えたのではないか。

WHAT WENT WRONG?

答えは簡単。カーク・ギブソンとオーレル・ハーシャイザーがいなかったから。
チームリーダーはいても、勝負師がいないのだ。

このチームはドジャース史上最強ではない。カーショーのこれまでの貢献度は認めても、彼が先発三本柱にいる限り、ドジャースは頂点に立てない。カーショーは負の勝負師の象徴となってしまった。



ジェイムス・クラムリーの「ファイナル・カントリー」も読み終えた。再読のつもりで読み始めたが、記憶に残るシーンは皆無だった。多分、出版当時に英語版を買って2、3ページ読んでそのままになってしまったのだろう。

今度はナナメヨミをしなかったが、寄り道だらけのプロットで筋がちんぷんかんぷんだった。なんでミロが、黒人の大男イーノスにこだわり続けるのかまるでわからなかった。いくらシルヴィ・ローマックスに捜索を依頼されたとはいえ、である。見つけても依頼人に報告するつもりはないのだから趣味の探偵ごっこでしかない。説得して、モンタナの隠れ家からテキサスへ連れ戻そうとするミロの心理がまったく読めない。無暴無策で殴られるためだけにイーノスと接触するミロは単なるアル中のアホ爺に見える。

しかもその無暴無策ゆえに、「人生最後のピュアな愛のようなもの」まで失うのだから愚かだ。チャンドラーが作り上げたムース・マロイの細胞がイーノス7、ミロ3の割合でブレンドされているようだが、ふたりの対決の「悲劇性」にはバカバカしさしか感じなかった。

親の遺産を受け継いでリッチになった60才のミロもつまらない。やたらと人を使って、面倒くさい仕事の半分は他人まかせというのは探偵小説のルール違反といっていい。第一ヒロインのベティは不愉快なだけで、第二ヒロインのモリーがその分魅力を発揮するが、再登場が何万光年も遅過ぎる。

関係者一同を集めてのクライマックスの謎解きが謎解きにならず、ドタバタの殺し合いになっている。クラムリーは、世界を呪って老化していったのだろう。私は70才になってクラムリーの呪縛から逃れることができた。

さらば愛しきOLD DICK JUNKIE…


2019/10/06 (日)

WHAT WENT WRONG? その壱。


何をどこでどう間違えたのか、という話を何回かに分けて書いてみる。

最初は愛読書。

ジェームス・クラムリーの「ダンシング・ベア」を再読した。80年代半ばに遭遇して以来、私はこのモンタナ舞台の暴力とセックスの「探偵小説」の映画化を熱望していた。ミステリ・マガジンのコラムでクラムリー愛を論じたこともある。

映画化権はどうなっているのかとネットで調べたところ、二年前の時点ではハリウッドのじじいたちがTVでのシリーズ化(おそらくリミテッド・シリーズだろう)を画策していることがわかった。「チャイナタウン」の夢をもう一度というEIGHTYSOMETHINGの脚本家ロバート・タウンと80年代の実力者マイク・メダヴォイがキーパーソンで、メル・ギブソンが監督として招かれたという記事だ。

原作を貶めるトリオといっていい。当然ながら実現していない。この連中に、我が愛しの「ダンシング・ベア」を汚されてなるものかという思いが、二十数年ぶりの再読の動機となった。私が読み直してON SPECで脚色に取り組んだとしてもどうなるものではないが。



最初に読んだのは英語版だった。その数年後に帰国した時、日本語訳本を購入した。翻訳にうんざりした記憶はなかったが、今回の再読で、先ず驚いたのが日本語訳の拙さだ。ミロ・ミロドラゴヴィッチの一人称で語られる犯罪小説なのだが、翻訳者の気分次第で「私」になったり「俺」になったり、ひょっとして「ボク」もあったんじゃないか。ミロは当然、こんな「使い分け」はしない。

もっとひどいのがダイアローグ。依頼人のサラ・ウェディントンのセリフがどうにもならない。

そして、それ以上にひどいのが原作プロット。私が愛した「ダンシング・ベア」はこんな風に「バルタザール行きあたりばったり」のプロットだったっけ?と読み進むほどに唖然となり憮然となって、ついにはナナメヨミを始め、お話のへそがどこにあるのかわからなくなってしまった。まるでチンプンカンプンといった読後感なのだ。

かすかに記憶にあったのは、脚色するなら多国籍企業の悪党ローガンを、ミロと対等の仇役として、冒頭から登場させるプランだ。原作では、ローガンは、終盤一カ所でしか出て来ない。ミロとシモンズの殴り込みの犠牲者のひとりだ。

小説自体、WHAT WENT WRONG?の出来だし、この映画化を長年熱望していた私の心理もWHAT WENT WRONG?なのだった。



無論、アル中のヘミングウェイがヒュー・ケイシーにぶん殴られて、うんうん唸りながらひねり出した風なタフで文学的な描写も随所にある。

考えてみれば、レイモンド・チャンドラーの諸作も、プロットだけ云々するならどうということのないものだったかもしれない。しかし、これはチャンドラーの「THE BIG SLEEP」を、ハワード・ホークスが1940年代のセックスと暴力で処理した「三つ数えろ」のタッチに近い。つまり、チャンドラーを脚色したウィリアム・フォークナーのやる気半分のシニカルな姿勢だ。

ホークスが、マーロウを演ずるボギーを登場する女たちすべてから「愛される」存在にしたように、「ダンシング・ベア」に登場する女たちの大多数が握手をするような気楽さで、ミロとセックスをする。

誰が誰をどういう狙いで殺したのかがはっきりしないのも「三つ数えろ」と「ダンシング・ベア」は似ている。

「三つ数えろ」は小粋な傑作だが、「ダンシング・ベア」は怠惰な原作者のファンタジーでしかないように思う。

コカインもタバコも吸い過ぎのミロに、私は愛想を尽かしてしまった。



とはいえ、あれほど愛したクラムリーであるゆえ、どこかに、今の私を燃えさせる何かがあるような気もしている。それで、「さらば甘き口づけ」と「ファイナル・カントリー」も再読する気になってはいる。

だが、今は、より大きな、ある「歴史の検証」に興味を惹かれている。その様々な資料を取り寄せ、夢中になって読破している。

作家の才能の垂れ流しよりは、実体験からのテスタメントの方が何倍も強い。

HBOの「チェルノブイリ」は、まだ二話までしか見ていないが、凄い。スケール、テーマ性、脚色力、演出力、演技力、すべてにダントツだ。脱帽。ヨハン・レクトが次に取り組む作品は、確実に、アカデミー賞でマルチ候補になる。

ラグビー日本代表も凄い。

ドジャースは、ベリンジャーが打てないから侘しい。6打席無安打4三振2四球。明日、敵地でのG3を落とすとG4も負けてNLDS敗退となる。この危機を救えるのは、ベリベリのバットだけ。


2019/09/09 (月)

ひじきクスクスDODGERSナディーン。


台風一過、窓外は36度。ガーリックと赤唐辛子たっぷりのオリーヴオイルで炒めたコンニャク、竹輪入ひじきを卵にまぜ、青唐辛子を加えてオムレツにして、トマトソースで煮込んだクスクスを添えて食べた。ゆとりの美味だった。

ドジャースのマジックナンバーは2。マエダがリリーフで9勝目をあげたが、ベリはヒットレス。いずれにせよ、このドジャースはワールドシリーズに到達したとしても、ヤンキースあるいはアストロスを相手に4勝できない。8月末から2週間、先発三本柱とクローザーのジャンセンが不安定で不甲斐ない敗戦を量産している。

主砲のベリも本日までの10試合が32打数9安打5打点2ホーマー。ドジャース史上初のシーズン50本塁打まであと6本だが達成はほぼ無理だろう。序盤戦の勢いはすっかり消えて絶好球の打ち損じが増えている。MVPを期待する「外野の合唱」が重荷のようだ。まだ24才だから気持ちを切り換えることがなかなか出来ないらしい。

監督のロバーツや打撃コーチのスコヤックの「助言」を聞く耳はあっても、プレッシャーは消しようがない。1試合だけでもいいから打順を3番にあげて三塁方向へのバントヒット及びレフト方向への安打狙いを徹底させるとか、発想の転換となる「不自由なアットバット」を体験させなければダメだ。これは無論、本番演技のプレッシャーを軽減しようという映画監督の発想ではあるけれど。正直な話、ワイルドカードで勝ち上がって来るのがナショナルズならば、ドジャースはNLDSで敗退するだろう。勝負強い投手も打者もいないのだから。



2018年のワールドシリーズ、ではなくてカンヌ映画祭では金メダルのパルムドールを「万引き家族」が取り、銀メダルのグランプリが「ブラッククランズマン」、銅メダルの審査員賞が「存在のない子供たち」だった。(そういう見方ならば、監督賞も主演男女も脚本賞も銅メダルということになる)。コンペ出品作は「ブラッククランズマン」、「コールド・ウォー」、「誰もがそれを知っている」、「ドッグマン」、「バハールの涙」、「バーニング劇場版」と見たが、「万引き家族」の優位は変わらなかった。

私はイ・チャンドンの諸作が好きなので「バーニング」には期待していた。が、これはイ・チャンドンにしては珍しい凡作であった。役者はそれぞれにいい。ただし、キャラクターに深みがない。話は通俗単調。唯一の見せ場となる「マジック・アワーの三人」があまりにも不自然で興ざめとなった。

つまり、一ヶ月かけて撮り続けたという「ある日のマジック・アワー」が2、3時間続いたであろうという流れなのだ。マジック・アワーの引き延ばしはあざとさしか生まない。イ・チャンドンは私とほぼ同世代だが、この映画は老いの戯言だ。



その直後に、ナディーン・ラバキの「存在のない子供たち」を見た。レバノンの今と格闘するナディーンと、製作音楽を兼ねたハリッド・ムザンナルの、夫婦の傑出した仕事ぶりに心が揺さぶられた。昨夜の暴風以上の風速で感性がギシギシ軋み、感動の嵐が渦巻いた。

主役のゼイン少年は、今まで見て来た子役の最高峰と言っていい。彼と一才の幼児とのシーンはすべて奇蹟である。主要キャスト全員がシリアやエチオピアの難民であったりレバノンの最底辺で生きて来た人々であり、そういう出演者たちを見事に統率し、カオス(CAPHARNAUM)という作品にまとめあげたナディーンの手腕に、私は圧倒された。

この大傑作を前にしたら「万引き家族」は霞んでしまう。なぜ、この作品がパルムドールとならず、銅メダルしか与えられなかったのか、私は考え込んでしまった。単なる審査員の嗜好で片付けられる問題ではない。政治がからんだのかもしれないし、ジェーン・キャンピオン以来の女性監督パルムドールを謳う「外野席の合唱」に、審査員がうんざりしたのかもしれない。



「外野席の合唱」は私が、ナディーンとともに審査員を務めた2008年のサン・セバスチャン映画祭でもあった。皮肉なことに、そのときの「合唱」はスペインの批評家たちを感動させた是枝監督の「歩いても歩いても」だった。審査員の殆どが、是枝作品を推す合唱をうるさく思い、脚本賞に推す私の声に賛同者はいなかった。

とはいえ、私のリストでも「歩いても歩いても」はトルコ映画、アルゼンチン映画、アメリカ映画に続く4位であったから、その3本を優先させ、是枝作品を諦めた記憶がある。アメリカ人だからアメリカ映画、日本人だから日本映画、スペイン人だからスペイン映画を推すというような、ジンゴイズムは一切なかった。2008年のブログを掘り返せば、もっと詳しいことも書けるが、この時の審査員仲間のハーモニーは最高だった。中でも、ナディーンとは作品の好みも一致していたこともあって、随分と親しくなった。

当時、彼女が監督していたのはデビュー作の「キャラメル」だけで、この作品でも音楽を担当していたハリッドとは、その頃準備していた時代劇の音楽構想を話し合った記憶がある。その企画が実現していれば、ハリッドに、ペルシャ風味のスコアをつけてもらうつもりだった。(「燃えよ剣」では土屋玲子さんがペルシャ風味を見事にアレンジしてくれた)。それから10年、ナディーンと是枝はカンヌでパルムドールを争い、是枝が栄冠を勝ち取ったということになる。



私が見る限り、「存在のない子供たち」の切実さは「万引き家族」を遥かにしのいでいる。安藤サクラ以下見事なアンサンブルのキャストも、このゼインを要のキャストの存在感には及ばない。演出力も桁違いだ。これに匹敵する大傑作は「ローマ」だけだ。「存在のない子供たち」で、ナディーン・ラバキは少なくとも現役女性監督の頂点に駆け上がった。この作品を見逃すことは許しがたい罪である。


2019/09/09 (月)

ひじきクスクスDODGERSナディーン。


台風一過、窓外は36度。ガーリックと赤唐辛子たっぷりのオリーヴオイルで炒めたコンニャク、竹輪入ひじきを卵にまぜ、青唐辛子を加えてオムレツにして、トマトソースで煮込んだクスクスを添えて食べた。ゆとりの美味だった。

ドジャースのマジックナンバーは2。マエダがリリーフで9勝目をあげたが、ベリはヒットレス。いずれにせよ、このドジャースはワールドシリーズに到達したとしても、ヤンキースあるいはアストロスを相手に4勝できない。8月末から2週間、先発三本柱とクローザーのジャンセンが不安定で不甲斐ない敗戦を量産している。

主砲のベリも本日までの10試合が32打数9安打5打点2ホーマー。ドジャース史上初のシーズン50本塁打まであと6本だが達成はほぼ無理だろう。序盤戦の勢いはすっかり消えて絶好球の打ち損じが増えている。MVPを期待する「外野の合唱」が重荷のようだ。まだ24才だから気持ちを切り換えることがなかなか出来ないらしい。

監督のロバーツや打撃コーチのスコヤックの「助言」を聞く耳はあっても、プレッシャーは消しようがない。1試合だけでもいいから打順を3番にあげて三塁方向へのバントヒット及びレフト方向への安打狙いを徹底させるとか、発想の転換となる「不自由なアットバット」を体験させなければダメだ。これは無論、本番演技のプレッシャーを軽減しようという映画監督の発想ではあるけれど。正直な話、ワイルドカードで勝ち上がって来るのがナショナルズならば、ドジャースはNLDSで敗退するだろう。勝負強い投手も打者もいないのだから。



2018年のワールドシリーズ、ではなくてカンヌ映画祭では金メダルのパルムドールを「万引き家族」が取り、銀メダルのグランプリが「ブラッククランズマン」、銅メダルの審査員賞が「存在のない子供たち」だった。(そういう見方ならば、監督賞も主演男女も脚本賞も銅メダルということになる)。コンペ出品作は「ブラッククランズマン」、「コールド・ウォー」、「誰もがそれを知っている」、「ドッグマン」、「バハールの涙」、「バーニング劇場版」と見たが、「万引き家族」の優位は変わらなかった。

私はイ・チャンドンの諸作が好きなので「バーニング」には期待していた。が、これはイ・チャンドンにしては珍しい凡作であった。役者はそれぞれにいい。ただし、キャラクターに深みがない。話は通俗単調。唯一の見せ場となる「マジック・アワーの三人」があまりにも不自然で興ざめとなった。

つまり、一ヶ月かけて撮り続けたという「ある日のマジック・アワー」が2、3時間続いたであろうという流れなのだ。マジック・アワーの引き延ばしはあざとさしか生まない。イ・チャンドンは私とほぼ同世代だが、この映画は老いの戯言だ。



その直後に、ナディーン・ラバキの「存在のない子供たち」を見た。レバノンの今と格闘するナディーンと、製作音楽を兼ねたハリッド・ムザンナルの、夫婦の傑出した仕事ぶりに心が揺さぶられた。昨夜の暴風以上の風速で感性がギシギシ軋み、感動の嵐が渦巻いた。

主役のゼイン少年は、今まで見て来た子役の最高峰と言っていい。彼と一才の幼児とのシーンはすべて奇蹟である。主要キャスト全員がシリアやエチオピアの難民であったりレバノンの最底辺で生きて来た人々であり、そういう出演者たちを見事に統率し、カオス(CAPHARNAUM)という作品にまとめあげたナディーンの手腕に、私は圧倒された。

この大傑作を前にしたら「万引き家族」は霞んでしまう。なぜ、この作品がパルムドールとならず、銅メダルしか与えられなかったのか、私は考え込んでしまった。単なる審査員の嗜好で片付けられる問題ではない。政治がからんだのかもしれないし、ジェーン・キャンピオン以来の女性監督パルムドールを謳う「外野席の合唱」に、審査員がうんざりしたのかもしれない。



「外野席の合唱」は私が、ナディーンとともに審査員を務めた2008年のサン・セバスチャン映画祭でもあった。皮肉なことに、そのときの「合唱」はスペインの批評家たちを感動させた是枝監督の「歩いても歩いても」だった。審査員の殆どが、是枝作品を推す合唱をうるさく思い、脚本賞に推す私の声に賛同者はいなかった。

とはいえ、私のリストでも「歩いても歩いても」はトルコ映画、アルゼンチン映画、アメリカ映画に続く4位であったから、その3本を優先させ、是枝作品を諦めた記憶がある。アメリカ人だからアメリカ映画、日本人だから日本映画、スペイン人だからスペイン映画を推すというような、ジンゴイズムは一切なかった。2008年のブログを掘り返せば、もっと詳しいことも書けるが、この時の審査員仲間のハーモニーは最高だった。中でも、ナディーンとは作品の好みも一致していたこともあって、随分と親しくなった。

当時、彼女が監督していたのはデビュー作の「キャラメル」だけで、この作品でも音楽を担当していたハリッドとは、その頃準備していた時代劇の音楽構想を話し合った記憶がある。その企画が実現していれば、ハリッドに、ペルシャ風味のスコアをつけてもらうつもりだった。(「燃えよ剣」では土屋玲子さんがペルシャ風味を見事にアレンジしてくれた)。それから10年、ナディーンと是枝はカンヌでパルムドールを争い、是枝が栄冠を勝ち取ったということになる。



私が見る限り、「存在のない子供たち」の切実さは「万引き家族」を遥かにしのいでいる。安藤サクラ以下見事なアンサンブルのキャストも、このゼインを要のキャストの存在感には及ばない。演出力も桁違いだ。これに匹敵する大傑作は「ローマ」だけだ。「存在のない子供たち」で、ナディーン・ラバキは少なくとも現役女性監督の頂点に駆け上がった。この作品を見逃すことは許しがたい罪である。


 a-Nikki 1.02