2021/09/18 (土)

チックタックティックタックドッキドッキ。


刻々と運命の時が迫る。本チャンは1015だが、その前にドジャース。

ポストシーズン進出は決めたが、1位通過か、ワイルドカード通過かは、おそらく、日本時間1004の最終戦までもつれこむのではないか。

とにかく、スーパースター不在の寄せ集め集団サンフランシスコ・ジャイアンツが強い。ドジャースは最終直接対決でも1勝2敗。これで対戦成績が9勝10敗となり、同率首位の場合、1ゲームのプレイオフを敵地で戦うことになる。

これに破れるとワイルドカードとなり、その2番手のチーム(パドレスかカーディナルスかレッズ)と1ゲームをホームで戦い、ディヴィジョン・シリーズで成績トップのジャイアンツとぶつかる。

うぜえぜ。

なんとしても1位通過だ。

現時点でジャイアンツとのゲーム差は2。我がベリンジャーの調子も、バッティング・スタンスを変え長打がで始めたが、まだまだMVPシーズンの男振りには程遠い。残り14試合。ベリが一ヶ月前のように4試合で4本のホームランを打つようになれば、11勝3敗で行ける。

そのためには明日明後日のレッズ戦を連勝し、そのあとのロッキーズ、Dバックスとの6試合を一つこぼすだけで切り抜け、パドレス、ブルワーズとの6試合を4勝2敗であがる。

強敵のブルワーズは、シーズン最後の三連戦で、地区優勝を決めているのでポストシーズンを見据え、エース級を温存する。ジャイアンツのシーズン最後の三連戦はパドレス。パドレスは、その時点でワイルドカードの2枚目を争っているだろうから必死で勝ちに来る。となると、流れは僅かにドジャースに優位かもしれない。



ドッキドッキしているだけでは精神衛生によくないので、映像シャワーを浴びる。すると、これが駄作タコ作のオンパレード。

「ワンダーウーマン1984」。バカも休み休みいえ、というプロット。なんでも望みが叶う魔法の鉱石ってさあ、幼稚だ!といい年こいた大人がだれも考えなかったのかい?クリスティナ・ウィーグの変身が唯一の楽しみだったけど、キッチュ度足りず。彼女の個性が生きず。ペドロ・パスカル。イイ役者なのに。究極のオーヴァーアクトの餌食。VFXだけが進化して、知性は置き去り。評価:ど真ん中のC。



「KATE」。これも脚本と演出がタコ。メリー・エリザベス・ウィンステッドはいい女優だし、その片鱗は随所にあるが、間尺を埋めるためのアクションに参加させられているだけの感あり。才能の無駄使いね。彼女、銃のアクションはOKレヴェルだが、格闘技はCクラス。やられるところは殆どスタント・ダブル。日本勢は役が役だから評価外。

それにしても、國村準と浅野忠信のお粗末な決闘はなに?セドリック・ニコラス・トロイアンがいかにダメな監督かということがよくわかる。準主役のアニを演ずるミク・パトリシア・マルティヌーはふつうにしていると雰囲気ある子なのに、泣き、喚き、叫ぶ芝居がどうにもならない。日本語もヘタ過ぎ。評価:C。



「ザ・ミスト」。2017年度のリミテッドシリーズ。殆ど早回しで。シーズン1で打ち切りになったのはゲイの少年をモンスターに仕立てたから?私はアリッサ・サザーランドの体つき顔付が気持ち悪かった。いずれにせよ、映画版よりキャラクターを深く描こうという気持ちはわかるが原作から離れ過ぎ。評価:途中Bに転ぶ目もあったが結局C。



「モンタナの目撃者」。「ウィンド・リヴァー」のような傑作を放ったテイラー・シェリダンがここまで堕ちるか、と唖然。アンジェリーナのマッチョ・トークと妊婦のアクションだけしか見るべきものがない。ガタガタ崩壊寸前のプロット。ニコラス・ホールトがなんでこんなしまらない殺し屋役を受けたのかわからない。それを言い出したらアンジェリーナだって、ジョー・バーンサルだってそうだけど。いくらでも役を選べるポジションにいる役者たちなのに恥ずかしくないのかね。評価:C。



素晴らしい作品にも、2本出会えた。

ひとつは2018年度のNETFLIXドキュメンタリー作品「パリ同時多発テロ/そのとき人々は」。2015年11月13日のテロを生きた人々のテスタメント。フランス大統領から人質まで、皆の証言だけで綴っているのに、心を揺さぶる臨場感がある。

フランス人だからこその観察力と表現力、そして人間力に感心した。

フランス語の音感が、悲劇を生き抜く詩心に繋がっているようにも思う。評価:A。

もう一本は、「IT’S A SIN哀しみの天使たち」。

今のところ第一話だけだが、これはパワーがある。1981年から10年間の、ゲイ・カマラデリーを描くトラジコメディー。笑って泣いて、テンポいいファックシーンに拍手して。

オリー・アレキサンダーがうまい。「ボディガード」で最高にセクシーな政治家だったキーリー・ホーズが平凡無邪気なママでびっくり。評価:第一話はA。


2021/09/09 (木)

「燃えよ剣」完成報告という起動!


夢かうつつか寝てか覚めてか状態にあった「燃えよ剣」が公開に向けて大きな一歩を踏み出した。緊急事態宣言下ゆえ無観客ではあったものの、土方もお雪も近藤も沖田も鴨も容保も慶喜も六本木に集結し、「燃えよ剣」イヴェント・トークをついに、つーつーついに敢行できた。1015に向けて完全覚醒!WEBで記事が出て、改めて、夢でもうつつでもないと確認した次第。

そして、初日は100%の観客と出会う舞台挨拶イヴェントが、形よくできますようにあらゆる神に祈ろう。

幕末は若い血が燃えたぎった時代。同時に、外敵に老若男女が怖れを抱いた時代。今は、外敵がコロナに変わり、怖れの形はより得体のしれないものにシフトした。開国派がワクチン接種派で攘夷派がマスク拒否派だ、とまでは言わないが、燃えたぎる血はリンクしている。それが数多のテロや、究極のデマゴーグ王ドナルド・トランプの愚かに燃えたぎる血であったりもする。

幕末では方向性が右か左かであったものが、今は、前後左右とその隙間に散らばっているから「筋の通った熱血」を見つけるのがむずかしくなっている。そういう時代だから、土方の「形のいい熱血」が光り輝く、と確信して、今夜はおやすみGOOD NIGHTグンナイ。


コロナ禍の 時代を追うな 夢を追え


2021/08/25 (水)

煮詰まり牛のエサ。


脚本を書いていて小さく煮詰まったときはキッチンに行って料理を作る。大きく煮詰まったときは映画館へ行く。8月上旬の煮詰まりでは、渋谷ルシネマで「少年の君」を見ようと決心した。以前、予告編を見て、ヒロインを演ずる中国の女優チョウ・ドンユイの初々しさに惹かれたのだ。相手役のジャクソン・イーの眼差にも好感を持った。

映画が始まると、意外なことに、予告編で感じたチョウの初々しさは限りなくゼロに近かった。うまいのだが、やたらと泣く。5分に一回といったペースで、「お決まり」の涙を流す。その老獪な涙腺を見ていると段々、彼女が高校生には見えなくなってきた。後で調べてみると、この作品を撮ったときには26か7だった。

監督はエリック・ツァンの息子デレク。アカデミー賞の国際映画賞にノミネートされるだけあって、映像センスはいい。ただし、彼は物語を編む腕がない。ヒロインに泣かせるだけの類型青春大メロドラマだ。苛めと受験。トーンをちょっといじるだけで、これはハリウッド青春エンタメの「マイ・ボディガード」に限りなく近づく。この執拗な苛めが中国の社会問題だとしたら、その責任はどこにあるのか。私などは、国家によるウィグル自治区、香港の自由への圧迫と苛めが大きな影を落としていると感じる。教育庁の取り組みを宣伝するラストに失笑。デレク・ツァンは香港の映画人の筈なのに。評価:B-。



8月下旬、また大きく煮詰まった。私は日比谷まで出かけ、「ドライブ・マイ・カー」を見ることにした。2時間59分の上映時間がネックだが、飽きたら途中で出るだけ。DRIVE ME CRAZYでなければいい。私はなんとなく、イングマール・ベルイマンの「野いちご」のようなドライヴ映画を予想していたのだが、これは、見事に外れた。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を村上春樹原作短編の背景から前面に出した脚本の大技大改造が見事だ。走る懺悔室として描かれるSAAB900の赤もいい(原作は黄色)。ディテールになると、カフカよりカ行では二段下流のカフク/家福の、演出家兼俳優の描写が寸足らずなところが気になった。例えば、台湾女優に感情を殺した読み合わせを「私たちはロボットじゃない」と批判されたときの演出家のスタンス/言葉が様になっていない。

もっとひどいのは同じ台湾女優が岡田将生とのセッションの感想を聞かれ、「それは演出家の仕事でしょう」と返したときの家福の反応。苦笑いして「(二人は)TERRIBLE」と答える。

これは、濱口竜介のような若手の演出家が小生意気な役者とのやりとりで体験したことならさもありなんと思う。しかし、家福は、どうやら世界的な知名度の演出家のようである。年齢も経験も濱口よりは一回り上だ。台湾女優へは蜷川幸雄になる必要はないが、「だから演出家が意見を求めている」程度の強権発動であくまでも感想を言わせることが自然だ。役者に何か意見を求めて回答を得ぬまま鉾を納めるのは一流の演出家ではない。家福が無能に見える。

とはいえ、この映画の最大の強みは脚本で弱点は別にある。演技陣だ。



傑出した演技を見せたのはふたり。三浦透子と韓国手話の女性(パク・ユリム?)。三浦が登場し、私はほっとした。彼女がいかにして運転技術を習得したかの「告白」は、この作品で唯一、私の涙を誘ったくだりだ。それほど彼女の演技は地に足がついていた。北海道でのクライマックス以外は。

三浦が登場するまでの1時間弱は正直、つらかった。世の中にベタな芝居は数あれど、ベタ淡々の芝居はそれほどあるものではない。

濱口監督がクランクイン前のリハーサルで、感情を押し殺したコールド・リーディングを繰り返すということは聞いた。この映画の家福のリハーサル風景がそれだ。同じ方法論は、「ノマドランド」のクローイ・ジャオもやっているし、私も初回の本読みでは使う。

ただ、私の場合、感情の削ぎ落としプロセスで、マシンガン・トークも使う。要は、ギアの入れ替えを自在にさせる訓練だ。演技経験のある連中を集めたワークショップになると、これにINDEPENDENT ACTIVITYを加える。アマチュアへの訓練に於いては、家福のように、ゆっくり感情を殺させる繰り返しが有効なのかもしれない。



私の演出法との比較はさておき、「ドライブ・マイ・カー」と「ノマドランド」の演技を比べた場合、双方ともにプロとアマチュアを混在させた配役でほぼ同系統のリハーサル・セッションを経ていながら、作品の仕上がりで歴然たる差異がある。風景に溶け込むナチュラルな芝居と風景から浮いたベタ淡々の芝居という致命的な差だ。何がこの差を生んだのか。

私は、濱口作品に於けるアマチュア演技陣は機能していると思う。無論、「ノマドランド」のリンダ・メイ、スワンキー、メリッサ・スミス級のアマチュア新人を揃えるのは奇蹟に近い。それでも、韓国手話の女性のニュアンスの芝居、すがすがしい表情にはジャオの作品に出てもなんら遜色のない絶対的な存在感があった。

冒頭に出て来る眼科の医者、韓国人コーディネイター(ジン・デヨン?)、アベサトコなどそれぞれに鮮度があった。問題は、西島秀俊、岡田将生、霧島れいか、といったプロの役者たちだ。彼らは、感情を殺したリハーサル・セッションのくせをひきずるかのように、ニュアンスが硬直した棒立ち芝居に堕している。



西島秀俊が演じた家福には、チェーホフが語る「生きることの試練」をもっとも劇的に生きた俳優長じての演出家エリア・カザンをホーフツとさせる部分が三カ所ある。私にとってのカザンの最高傑作は「波止場」と「暗黒の恐怖」であって、彼の舞台演出の延長でしかない「欲望という名の電車」には抵抗がある。それでも、彼の、赤狩りの時代を不偏不党の精神と映画監督のキャリアを渇望する闘争力で生き抜いた活力には、心を打たれ、人生の師匠として深く敬愛している。それだけに、余計、西島の演技を厳しく採点してしまうのかもしれない。

その三カ所とは、第一に家福がカザンのように俳優であり演出家であるということ、第二は帰宅したら妻がくも膜下で死んでいたということ、第三に、公園での台湾女優と韓国手話女優のリハーサル・セッションで韓国女性の何気なく落ち葉を拾う動作を見て(と私は断定する)家福が「何かが二人の間に生まれた」というくだりだ。

第三ポイントは普通に見れば、日射しのショットがいいだけで演技的高揚は特にないシーンだ。が、「波止場」の公園シーンを思い浮かべると様相が変わる。そこではマーロン・ブランドが、相手役のイヴァ・マリー・セイントが本番中に偶然落とした手袋を拾った。カザンはカットをかけず成り行きを見守った。するとブランドは手袋に手を通し芝居を続け、イヴァはひかえめに手袋を取り返すジェスチャーをしながらセリフを返した。歴史的なメソッド・ナチュラルな場面と家福の公園は、展開が似ている。

そういうことを西島は感じ取っていたのだろうか。カザンの生き様を、家福にとっての「そうはなりたくない」という反面教師として意識したかどうかという問題でもある。それだけの感性を持った役者が、家福には必要だった。そして、なによりも困惑するのは、彼が演ずる舞台の「ワーニャ伯父さん」、「ゴドーを待ちながら」になんの魅力も感じないことだ。役者の家福は決してうまいとはいえないし、それら東京での舞台に於ける共演者はもっとひどい。



岡田将生は、走る懺悔室での告白芝居にはいいものがあった。ただ、これは、酷な言い方をすれば、打球を見誤った外野手が逆方向に走り、慌てて定位置に戻って美しいスライディング・キャッチを魅せたようなもので、スーパー・キャッチとは言いがたい。

去年7月「崖の上に街があった」というNHKのトラヴェローグを見た。ロケ地の映像は一流だが、私は岡田将生のナレーション言葉にうんざりした。言葉を発する直前の、呼吸に於ける行くぞ感は、私がもっとも嫌悪する間だ。それが今回も頻繁にある。セリフを出す間合いとタメが気になって仕方がない。

走る懺悔室ではそれが抜けていて、なぜ最初からそうしないのかとも思ったが、高槻の役にはミスキャストだ。ワーニャの役に彼を抜擢するのはドラマの流れを面白くするが、家福のマゾヒズムを安っぽく強調することにもなる。オーディションのシーンもお粗末だ。というか、オーディションのくだりは、登場人数が少ないため、相対的に、この演劇および演出家のスケール感を矮小化してしまう。そういう不毛なエピソードの流れに、高槻が埋没している。



音を演ずる霧島れいかは、セックスシーンに於ける体の動きやセリフ廻しはいいのに、ストレートな演技では、ベタベタ淡々。それがねっとりこびりつく不快感を、私は感じた。棒読みを強調したテープのトーンも、ナチュラルな芝居をできるものが感情を抑えたコールドではなく、ベタな芝居しかできないものが感情を抑えた単調さしか聞こえなかった。

北海道での西島と三浦のクライマックスも、本番パフォーマンスというよりは、まだまだリハーサルから抜け切れていないぬるま湯感が漂った。走る懺悔室から解放された銀世界での懺悔は、棒立ち芝居ではなく、動く芝居が欲しかった。

本編のシメとなるソーニャの手話セリフ、その間、ワーニャの家福が一言も発せずキョロキョロしているのも形が悪い。エピローグは蛇足だし、音楽が明るい未来を意識した空回りで呆れた。とはいえ、数時間かけてこれだけ言葉を書き連ねたくなる様々な可能性や論点が、濱口竜介作品にはある。評価:B+。


2021/08/25 (水)

煮詰まり牛のエサ。


脚本を書いていて小さく煮詰まったときはキッチンに行って料理を作る。大きく煮詰まったときは映画館へ行く。8月上旬の煮詰まりでは、渋谷ルシネマで「少年の君」を見ようと決心した。以前、予告編を見て、ヒロインを演ずる中国の女優チョウ・ドンユイの初々しさに惹かれたのだ。相手役のジャクソン・イーの眼差にも好感を持った。

映画が始まると、意外なことに、予告編で感じたチョウの初々しさは限りなくゼロに近かった。うまいのだが、やたらと泣く。5分に一回といったペースで、「お決まり」の涙を流す。その老獪な涙腺を見ていると段々、彼女が高校生には見えなくなってきた。後で調べてみると、この作品を撮ったときには26か7だった。

監督はエリック・ツァンの息子デレク。アカデミー賞の国際映画賞にノミネートされるだけあって、映像センスはいい。ただし、彼は物語を編む腕がない。ヒロインに泣かせるだけの類型青春大メロドラマだ。苛めと受験。トーンをちょっといじるだけで、これはハリウッド青春エンタメの「マイ・ボディガード」に限りなく近づく。この執拗な苛めが中国の社会問題だとしたら、その責任はどこにあるのか。私などは、国家によるウィグル自治区、香港の自由への圧迫と苛めが大きな影を落としていると感じる。教育庁の取り組みを宣伝するラストに失笑。デレク・ツァンは香港の映画人の筈なのに。評価:B-。



8月下旬、また大きく煮詰まった。私は日比谷まで出かけ、「ドライブ・マイ・カー」を見ることにした。2時間59分の上映時間がネックだが、飽きたら途中で出るだけ。DRIVE ME CRAZYでなければいい。私はなんとなく、イングマール・ベルイマンの「野いちご」のようなドライヴ映画を予想していたのだが、これは、見事に外れた。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を村上春樹原作短編の背景から前面に出した脚本の大技大改造が見事だ。走る懺悔室として描かれるSAAB900の赤もいい(原作は黄色)。ディテールになると、カフカよりカ行では二段下流のカフク/家福の、演出家兼俳優の描写が寸足らずなところが気になった。例えば、台湾女優に感情を殺した読み合わせを「私たちはロボットじゃない」と批判されたときの演出家のスタンス/言葉が様になっていない。

もっとひどいのは同じ台湾女優が岡田将生とのセッションの感想を聞かれ、「それは演出家の仕事でしょう」と返したときの家福の反応。苦笑いして「(二人は)TERRIBLE」と答える。

これは、濱口竜介のような若手の演出家が小生意気な役者とのやりとりで体験したことならさもありなんと思う。しかし、家福は、どうやら世界的な知名度の演出家のようである。年齢も経験も濱口よりは一回り上だ。台湾女優へは蜷川幸雄になる必要はないが、「だから演出家が意見を求めている」程度の強権発動であくまでも感想を言わせることが自然だ。役者に何か意見を求めて回答を得ぬまま鉾を納めるのは一流の演出家ではない。家福が無能に見える。

とはいえ、この映画の最大の強みは脚本で弱点は別にある。演技陣だ。



傑出した演技を見せたのはふたり。三浦透子と韓国手話の女性(パク・ユリム?)。三浦が登場し、私はほっとした。彼女がいかにして運転技術を習得したかの「告白」は、この作品で唯一、私の涙を誘ったくだりだ。それほど彼女の演技は地に足がついていた。北海道でのクライマックス以外は。

三浦が登場するまでの1時間弱は正直、つらかった。世の中にベタな芝居は数あれど、ベタ淡々の芝居はそれほどあるものではない。

濱口監督がクランクイン前のリハーサルで、感情を押し殺したコールド・リーディングを繰り返すということは聞いた。この映画の家福のリハーサル風景がそれだ。同じ方法論は、「ノマドランド」のクローイ・ジャオもやっているし、私も初回の本読みでは使う。

ただ、私の場合、感情の削ぎ落としプロセスで、マシンガン・トークも使う。要は、ギアの入れ替えを自在にさせる訓練だ。演技経験のある連中を集めたワークショップになると、これにINDEPENDENT ACTIVITYを加える。アマチュアへの訓練に於いては、家福のように、ゆっくり感情を殺させる繰り返しが有効なのかもしれない。



私の演出法との比較はさておき、「ドライブ・マイ・カー」と「ノマドランド」の演技を比べた場合、双方ともにプロとアマチュアを混在させた配役でほぼ同系統のリハーサル・セッションを経ていながら、作品の仕上がりで歴然たる差異がある。風景に溶け込むナチュラルな芝居と風景から浮いたベタ淡々の芝居という致命的な差だ。何がこの差を生んだのか。

私は、濱口作品に於けるアマチュア演技陣は機能していると思う。無論、「ノマドランド」のリンダ・メイ、スワンキー、メリッサ・スミス級のアマチュア新人を揃えるのは奇蹟に近い。それでも、韓国手話の女性のニュアンスの芝居、すがすがしい表情にはジャオの作品に出てもなんら遜色のない絶対的な存在感があった。

冒頭に出て来る眼科の医者、韓国人コーディネイター(ジン・デヨン?)、アベサトコなどそれぞれに鮮度があった。問題は、西島秀俊、岡田将生、霧島れいか、といったプロの役者たちだ。彼らは、感情を殺したリハーサル・セッションのくせをひきずるかのように、ニュアンスが硬直した棒立ち芝居に堕している。



西島秀俊が演じた家福には、チェーホフが語る「生きることの試練」をもっとも劇的に生きた俳優長じての演出家エリア・カザンをホーフツとさせる部分が三カ所ある。私にとってのカザンの最高傑作は「波止場」と「暗黒の恐怖」であって、彼の舞台演出の延長でしかない「欲望という名の電車」には抵抗がある。それでも、彼の、赤狩りの時代を不偏不党の精神と映画監督のキャリアを渇望する闘争力で生き抜いた活力には、心を打たれ、人生の師匠として深く敬愛している。それだけに、余計、西島の演技を厳しく採点してしまうのかもしれない。

その三カ所とは、第一に家福がカザンのように俳優であり演出家であるということ、第二は帰宅したら妻がくも膜下で死んでいたということ、第三に、公園での台湾女優と韓国手話女優のリハーサル・セッションで韓国女性の何気なく落ち葉を拾う動作を見て(と私は断定する)家福が「何かが二人の間に生まれた」というくだりだ。

第三ポイントは普通に見れば、日射しのショットがいいだけで演技的高揚は特にないシーンだ。が、「波止場」の公園シーンを思い浮かべると様相が変わる。そこではマーロン・ブランドが、相手役のイヴァ・マリー・セイントが本番中に偶然落とした手袋を拾った。カザンはカットをかけず成り行きを見守った。するとブランドは手袋に手を通し芝居を続け、イヴァはひかえめに手袋を取り返すジェスチャーをしながらセリフを返した。歴史的なメソッド・ナチュラルな場面と家福の公園は、展開が似ている。

そういうことを西島は感じ取っていたのだろうか。カザンの生き様を、家福にとっての「そうはなりたくない」という反面教師として意識したかどうかという問題でもある。それだけの感性を持った役者が、家福には必要だった。そして、なによりも困惑するのは、彼が演ずる舞台の「ワーニャ伯父さん」、「ゴドーを待ちながら」になんの魅力も感じないことだ。役者の家福は決してうまいとはいえないし、それら東京での舞台に於ける共演者はもっとひどい。



岡田将生は、走る懺悔室での告白芝居にはいいものがあった。ただ、これは、酷な言い方をすれば、打球を見誤った外野手が逆方向に走り、慌てて定位置に戻って美しいスライディング・キャッチを魅せたようなもので、スーパー・キャッチとは言いがたい。

去年7月「崖の上に街があった」というNHKのトラヴェローグを見た。ロケ地の映像は一流だが、私は岡田将生のナレーション言葉にうんざりした。言葉を発する直前の、呼吸に於ける行くぞ感は、私がもっとも嫌悪する間だ。それが今回も頻繁にある。セリフを出す間合いとタメが気になって仕方がない。

走る懺悔室ではそれが抜けていて、なぜ最初からそうしないのかとも思ったが、高槻の役にはミスキャストだ。ワーニャの役に彼を抜擢するのはドラマの流れを面白くするが、家福のマゾヒズムを安っぽく強調することにもなる。オーディションのシーンもお粗末だ。というか、オーディションのくだりは、登場人数が少ないため、相対的に、この演劇および演出家のスケール感を矮小化してしまう。そういう不毛なエピソードの流れに、高槻が埋没している。



音を演ずる霧島れいかは、セックスシーンに於ける体の動きやセリフ廻しはいいのに、ストレートな演技では、ベタベタ淡々。それがねっとりこびりつく不快感を、私は感じた。棒読みを強調したテープのトーンも、ナチュラルな芝居をできるものが感情を抑えたコールドではなく、ベタな芝居しかできないものが感情を抑えた単調さしか聞こえなかった。

北海道での西島と三浦のクライマックスも、本番パフォーマンスというよりは、まだまだリハーサルから抜け切れていないぬるま湯感が漂った。走る懺悔室から解放された銀世界での懺悔は、棒立ち芝居ではなく、動く芝居が欲しかった。

本編のシメとなるソーニャの手話セリフ、その間、ワーニャの家福が一言も発せずキョロキョロしているのも形が悪い。エピローグは蛇足だし、音楽が明るい未来を意識した空回りで呆れた。とはいえ、数時間かけてこれだけ言葉を書き連ねたくなる様々な可能性や論点が、濱口竜介作品にはある。評価:B+。


2021/08/09 (月)

アスリートには感動したものの・・・


閉会式は選手入場とパリ五輪予告編以外、まったくしまらなかった。選手入場にしても、そのあとがいけない。三つのセクションを大会アシスタントがまるで警備員のように囲み、大戦前の上海や大戦後のベルリンのように「租界」内に選手が閉じ込められている風で、管理社会の気味悪さが前面に押し出されていた。

その中央、ムダに大きく開けた「広場」で展開するショー演出コンセプトは驚くほど安っぽかった。気のきかない解説アナウンサーは「演出チーム」という言葉を使っていたから複数の三流演出家が揃えられていたのだろう。保育園園児のお遊戯の方が、無邪気な分、もっとマシだ。

そういえば、ソロ・ダンサーの衣装はまさに保育園お遊戯レヴェルの安っぽさで、センスのなさに絶句した。

その分、パリ五輪の予告映像のアグレッシブな芸術性に心を動かされた。あの「ラ・マルセイエーズ」の映像アプローチは素晴らしい。パリ2024の「会場が町へ出る」コンセプトもわくわくする。テディ・リネール以下のメダリストが群衆を従え大空を仰ぐダイナミズムにも唸った。

パリ大会はすごいことになる。その頃はきっと空前の旅行ブームになっていて、人々は大挙パリを訪れ、祝祭の日々が続くのだろう。



私にとってオリンピックの最大の魅力は、国籍や人種を超えた感動の場があることだ。自国のアスリートへの声援は当然ある。柔道の阿部兄妹、大野翔平といったメダリストの戦いや競泳女子の大橋の二つの金メダル、ゴルフ女子の稲見の銀など、熱戦具合をリアルタイムで追いかけ応援し心から感動した。

が、虚を衝かれ、驚き、感動を発見したアスリートの筆頭は、陸上女子オランダ代表のシファン・ハッサンだった。

1500Mの予選転倒はリアルタイムで見ていた。最後の一周で11人をごぼう抜きして予選一位通過を果たした姿には仰天感動だった。同日に行われた5000M決勝での金メダル走にも魅せられた。

美人度では、私の好みはスウェーデン女子サッカーFWのアスラニ選手であって、ハッサン選手(増田明美さんの解説の「ハッサンサン」も好きだが)にはそういった興味はない。しかし、いぶし銀の実力派俳優のオーラがある。



エチオピアからの難民として15才でオランダに渡り、そこで天賦の才に磨きをかけたという苦節の誠実さを感じさせる部分もある。特ににこやかではないし、無愛想でもない。スタイルはいいが走り方はむしろ野暮ったい。しかし、それが実直な伝統工芸の職人風でもあり、私のようなアルチザンには魅力的に光り輝く。

当然ながら、1500Mの決勝も、彼女を見るためにその日の仕事を終わらせて応援した。結果は銅メダルであったがゆえに、10000Mでは是が非でも勝って2冠を達成してもらおうと、その時を、ひょっとしたら男子サッカーのスペイン戦以上にわくわくして待った。

10000M決勝の彼女の走りには求道者の覚悟があった。

達人芸とも言えるかもしれない。

勝利の瞬間に歓喜の拍手を送り、涙した。シファン・ハッサンがくれた感動は、オリンピックの歓びだ。


 a-Nikki 1.02