2025/03/24 (月)

時流に逆らっているのかな。


本年度の米アカデミー賞で脚光を浴びたのは、私にはインパクトの弱い作品ばかりだった。

「アノーラ」はよくまとまっているドタバタ喜劇というだけで、取り立てて優れたところは一つも見出せなかった。セックス・ワーカーのアノーラが娼婦呼ばわりされて怒るバカさ加減にはただただ呆れた。

近年の作品賞受賞作「エブエブ」や「CODAあいのうた」に比べればマシという程度であって歴史に残る映画ではなかった。

要は、ハリウッドのビロウ・ザ・ライン労働者たちがこういう製作費600万ドル程度のNICHE PICTURESをもっと作ろうよというメッセージが込められた受賞だろう。昔々、「アニー・ホール」が受賞した年にも、それは言われたことだ。


「ブルータリスト」はおしゃれなインターミッションの後、展開が冗漫になり理不尽な終盤に流れこんでしまった。9割大傑作で最後の15分ほどで音を立てて崩壊した「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」と同じ不快さを味わった。

ポール・トーマス・アンダーソンはその後「ファントム・スレッド」のような傑作を放っているが(「リコリス・ピザ」のような醜悪な駄作もある)、このブレイディ・コルベ(ブラディ・コルベットとは発音しない)はどうだろう。


架空のハンガリー人建築家を創り上げる作業に途中までは成功した。架空であるゆえ事実もしくは歴史のガイドラインがなく、映画の着地点を見失って自爆した。言ってみれば高い理想を求める建築家の栄光と破壊を描いたアイン・ランドの「水源」(映画版はゲイリー・クーパー主演の「摩天楼」)に近づこうとしたのか。

着地大失敗を指摘する声よりも、「勇気ある作家性」を讃えるアメリカの批評家たちの合唱に支えられ、傲慢な映画作家のキャリアを築く可能性は高い。

エイドリアン・ブロディはハンガリー人建築家を演じて二度目の主演男優賞を手にしたわけだが、私はこれにも不満だ。彼の演技は秀逸ではある。が、この役はイタリアで「強姦された」とされるサード・アクトの後半以降、演技の見せ場はない。将来、エイドリアンが主役として機能する傑作映画が生まれる可能性も極めて低い。

「戦場のピアニスト」でアカデミー賞主演男優賞を受賞した以降のキャリアでブロディがその才能を発揮したのは脇役のみだ。私が唸ったのは「ピーキー・ブラインダース」のアメリカン・マフィアぐらいだ。その役にしてもマシンガンの扱いがみっともなかった。


現時点で私がおそらく大絶賛するであろうエドワード・ベルガーの「教皇選挙」とかつて大傑作を連打したジャック・オーディアールの「エミリア・ペレス」は見ていない。そのことを前提に言えば、作品賞は「名もなき者」に行くべきだったし、主演男優賞はティモシー・シャラメが勝ち取るべきだった。監督賞はジェームス・マンゴールドだ。

助演男優賞はキーラン・カルキンよりもピート・シーガーを演じ切ったエドワード・ノートンがふさわしかった。さらに言うなら、ノミネートもされなかった「セプテンバー5」のジョン・マガロが受賞すべきだった。

とにかく、シャラメのボブ・ディランは絶品だった。あの時代を知る私としては何度も目頭が熱くなった。モニカ・バルバロ演ずるジョーン・バエズとシャラメのデュオには魂の慟哭すら覚えた。ジョニー・キャッシュのボイド・ホルブルックも、ウディ・ガスリーのスクート・マクネイリーも素晴らしかった。彼らのパフォーマンスにワクワクした。キューバ危機の夜、逃げ回ってボブ・ディランにたどり着くジョーン・バエズの扱いに圧倒された。




ところで、私は2022年に出版された時から気になっていた「同志少女よ、敵を撃て」の文庫本をやっと手に取り、ほぼ一気読みしたわけだが、まさかこれが「名もなき者」体験とリンクするとは思ってもいなかった。

その(私にとっては)驚愕の連鎖については次回触れようと思う。


2025/03/19 (水)

ミシガン大学からの便り。


マーカスの映画史クラスの生徒40人による、私のアナーバー訪問に関するレポートが届いた。とてもありがたいフィードバックだ。学生たちが「関ヶ原」をミシガン劇場で見た後、1月下旬に提出したものだ。私との昼食会に参加した生徒では幹事的業務をこなしたクローイとインド系のイシャンだけは認識できたが、他の6人はわからなかった。映画史のクラスではなかったのかもしれない。

提出学生は男女半々で、作品を見ておらず、私のクラスでのトークの感想を書いていたのが一人。映画のストーリー解説に終始した学生が一人。(コピペかもしれない)「ガンヘッド」の予告編を見ただけのレポートが一人。「SHOGUN」との安易な比較が一人。アマチュアとプロの役者の使い方に関する私の考えを誤解して「関ヶ原」を批判している者が一人。あとの35人はそれぞれの個性が確認できるレヴェルの高いレポートで、「関ヶ原」を楽しんでくれたのがわかる。映画監督志望の学生は5人いた。日本映画を初めて映画館で見て、感動した学生も3人いた。


学生たちに最も人気が高かった登場人物は初芽(有村架純)だった。歴史スペクタクルでは添え物扱いの女性たちが、「関ヶ原」では、初芽を筆頭に寧々(キムラ緑子)、花野(中越典子)と強烈な存在感を発揮することに心を動かされたようだ。男子学生にも初芽ファンは多かった。

ハワード・ホークスに触れるレポートも多かった。これは、私がクラスでホークス作品との出会いとそしていかにしてホークスが私にとってのmentorになったかを事細かに語ったことと大いに関連している。映画史を学ぶ学生たちだから当然、ホークスがどれほど偉大な映画人であったかは知っている。作品も見ている。


考えてみれば、ホークス、クロサワと長時間話し映画作りを学んだ経験のある現役映画監督は私以外にいないかもしれない。学生たちの大半はそういう視点で、ホークスを神と仰ぐ日本人がどんな映画を作ったのか興味を持ってくれたようだ。

ホークス作品の「紳士は金髪がお好き」と「ヒズ・ガール・フライデー」が好きという男子学生は、「関ヶ原」の戦闘シーンに「紳士は金髪がお好き」のミュージカル・ナンバーの影響を感じたと書き綴っていた。おそらく他のホークス作品を見ていないのだろう。愛が溢れる勘違いだ。

三成対家康の対立を民主党対共和党の戦いに置き換えている学生もいた。無論、家康がトランプだ。


面白かったのは、クラスでの私のトークにおけるcandidnessを褒める声が多かったことだ。つまり、このブログで書いているように、駄作は駄作として分析し切り捨て、褒める作品は徹底して褒める、という率直な辛辣さ、だ。なぜ私の率直さが新鮮だったかというと、昨今のゲスト・スピーカーは好き嫌いをはっきり表明しないと学生たちはいう。理由は簡単、一言喋るとそれがSNSであらぬ方向に拡散される。拡散を恐れて言葉を濁すことが多いのだ。

私の「率直さ」はそもそも1973年にアメリカへ渡ったことによって培われたものだ。基本的に、20代までの私は引っ込み思案で言いたいことを言えなかった。ウジウジしている若者だった。LAに来て、英会話から映画に至る色々なクラスで学び様々な交流を通して、自分の考えをはっきり表明する訓練を受けた。数え切れないほどの失言や失敗もした。それが少しづつ形を整え始めたのは50歳を過ぎてからだと思う。

いずれにせよ、20代から40代にかけて日本で過ごしていたら、私はいつまで経っても引っ込み思案で優柔不断なB型蟹座男のままだったと思う。

2025年のアナーバーで感じたのはそんな時代の流れだ。Candidnessはアメリカ文化に組み込まれていたのに、それが希少価値になりつつあるとは・・・。
トランプのようなゲスの極みがホワイトハウスに居座ることで、これから先、アメリカ人はますます言いたいことを言えなくなるのかもしれない。


2025/03/04 (火)

アナーバー日記の後始末。


一ヶ月もアナーバー日記を中断していたのは、2月いっぱいで上げなければいけない脚本があったため。で、脚本執筆中は、刺激を与えてくれる映像を脳が欲するようになる。しかも、年明け以来劇場で見た映画がミシガン・シアターでの我が「関ヶ原」のみ、というのでは映画の神々に叱責されてしまう。

それで、劇場では「セプテンバー5」、「ブルータリスト」、「アノーラ」を見てネットではドキュメンタリーの「SURVIVING BLACKHAWK DOWN」、コラリー・ファルジャの出世作「リベンジ」、リミテッド・シリーズの「阿修羅のごとく」、「ZERO DAY」と続けて見た。

そうやって2月は終わり、昨日はアカデミー賞。これが史上最悪のテレキャストで怒り心頭血圧高騰の4時間弱となった。NHKは何故多重音声にせず、同時通訳のみに頼ってしまったのか。不愉快極まりない。


こういったAクラスの授賞式は司会もプレゼンターも受賞者も、練りに練ったスピーチで武装する。同時通訳の機能は迅速に要約することであって、オリジナルのウィットや知性は置き去りにされる。そのポイントが全く理解できていない愚鈍な制作陣ゆえ、こういった破廉恥なライヴになってしまったのだろう。

去年までのWOWOWの同時通訳チームがどんなにお粗末だったとしても、WOWOWではオリジナルの声を聞くことができた。

NHKは四人だか五人だかの同時通訳チームにオリジナル音声に被せる猿芝居を強制していた。「関ヶ原」で役所さんが演じてくれた「激怒怒怒」を関係者全員にぶつけたい。


ここ二週間、我が窓から見下ろせる隅田川のユリカモメたちはほとんど姿を見せなかった。今日は、ユリカモメの群れが飛び回っている。気分が高揚する。
彼らは南から渡って来たのか、これから北へ渡るウォーミングアップをしているのか。

アナーバー日記の締めくくりとしては、「関ヶ原」上映の翌日1月24日、マーカスがセットアップしてくれた学生たちとのランチョンが実に楽しかった。参加した学生は8人。女生徒6人と男生徒2人。学生たちが自由に喋ることができるようにと教授陣は参加せず、私を入れて9人のみの昼食会は2時間に及んだ。彼らは全員「関ヶ原」を見ていたので、その撮影談や映画全般の話など質問が途切れることはなかった。夜はマーカスの家でのホーム・パーティ。ここでは教授陣との楽しい会話が夜遅くまで続いた。

翌25日はマーカスとピーターの案内でデトロイト探訪。この街が豊かであった頃築かれた巨大な建築物の数々に目を見張った。アート・ミュージアムにあるディエゴ・リヴェラの四面壁画にも唸ったが、復活したザ・ステーション、今も現役のフィッシャー・ビルディングなどなど古き佳きアメリカの巨神信仰に心を揺さぶられた。トランプの下品さを受け付けない叡智の巨きさの話だ。

デトロイト探索の締めは、EL BARZONのメキシコ料理だった。私の人生で最高のエンチラーダ・ロハスに出会うことができた。


2025/02/04 (火)

アナーバー日記。その2。


1月23日。木曜日。
ミシガン大学にはアナーバーのダウンタウンと渾然一体となったセントラル・キャンパスの他に、車で10分ほどの郊外の丘陵地帯に広がるノース・キャンパスがある。卒業生のアーサー・ミラーの業績を記念するモダンなアーサー・ミラー・シアターもここにはある。マーカスは、そこからさらに5分ほど走らせたノースキャンパスと森林地帯の境にある倉庫ビルに私を連れて行ってくれた。

雪景色の中で異彩を放つその巨大長方形の建物は、どこぞの惑星の銀色の砦に見える。マーカスはその建物をMAVERICK COLLECTIONと呼んだ。シャッターが降りた搬入口の脇にある通用口に、そのコレクションの管理を任されているフィルが現れ、我々を中に入れてくれた。

「エイリアン」と「スター・ウォーズ」と「シルクウッド」が合わさったビルにようこそ、と彼は言う。天井が高く広いメタリックな廊下が縦横に広がって各セクションが重いドアに仕切られた空間は宇宙船の内部のようでもある。だから最初の2作の引用はわかる。「シルクウッド」は、メリル・ストリープが演じたカレン・シルクウッドが働いていた核燃料工場のイメージで引用したのだろう。


フィルは坊主頭の巨漢。有能なライブラリアンだと、マーカスは言う。このビルには卒業生を中心に寄贈された膨大な量の書籍や資料が保管されている。映画関係だけでも、オーソン・ウェルズ、ロバート・アルトマン、ジョナサン・デミ、ローレンス・キャスダン、ジョン・セイルズの、それぞれの映画宇宙を彩る資料が収納されている。様々なプロップやポスター類もある。

オーソン・ウェルズの場合は「市民ケーン」で使用した黒い帽子も杖もあった。
様々なスケッチやアイデアが書かれたノートもあった。私が「関ヶ原」で参考にさせてもらった「フォルスタッフ」又は「CHIMES AT MIDNIGHT」のオリジナルの絵コンテもあった。これらは競売に出されたら7桁の値段がつくかもしれないレアものだ。フィルがウェルズの娘の知遇を得て寄贈されたのだと言う。

他の四人の監督の場合は、それぞれの部屋に100を越えるボックスが収納されている。彼らが携わった映画の詳細な資料やメモが詰まった宇宙だ。人間的には問題あるが、整理能力に優れているのはローレンス・キャスダンだ、とフィルは言う。寄贈された時点で、完璧な目録ができていたらしい。

私の映画人生はおそらくボックスにして20個あるかないかだろう。アメリカで映画を作ると言うことは、エージェントや弁護士、ステュディオ重役たちとのやり取りだけで膨大な量のメモが残る。その差は大きい。ストレスも巨大だ。

フィルは2時間かけて映画宝庫を案内してくれた。私はひたすら圧倒され、オーソン・ウェルズの黒い帽子を被って記念写真におさまった。


ディナーは夜の「関ヶ原」上映に備えて早めに食べた。アナーバーの人気レストランのひとつSAVA’S。ギリシャ系の店だ。私はギリシャ風サラダのハーフとフィッシュ&チップスを頼んだが、またしても大部分がテイクアウトだった。

前夜のディナーはCJSの三人の女性教授たちと超人気のMANI OSTERIAでのイタメシだった。そこでは時差ぼけもあって食欲もうつろで、女性陣のオーダーした品々を摘む程度だった。

この夜の場合は、マーカスの親友でもある音楽関係の仕事をしているピーターと男三人でのディナー。ピーターは大阪西成区の住民だったこともあり、完璧な大阪弁を話すインテリだ。数時間後に控えた「関ヶ原」Q &Aに備え英語感覚を養いたい私の気持ちを二人は察してくれて、会話は英語で通したけれど。

「関ヶ原」の冒頭挨拶を、次週、その次の週と続く日本の三大変革期のことを話すか、それとも、最近私が思うに至った三成、土方、阿南陸相という三人の主人公のアルベール・カミュ的生き方の共通項を話すべきか、と相談するとピーターは即座に、カミュ、と答えた。マーカスも、日本の三大変革期に関しては上映後の質疑応答で、自分が振ると提案してくれた。

カミュ的生き方というのは、不条理から逃れらないがニヒリズムに走ることがない生き方のことで、最近読み始めたカミュの諸作によって、カミュも、三成も、土方も、阿南陸相も、志半ばによる不条理な死を迎えたと考えるようになったためだ。


上映会はとてもいい雰囲気で始まり、上映後のトーク・イヴェントも1時間に及んだ。私も久しぶりに大画面で「関ヶ原」を鑑賞し、改めて、我がスタッフ、キャストの熱気を堪能した

「SHOGUN」の1話と2話を劇場で見た時、天皇制に一切触れてないゆえにオーセンティシティに著しく欠けていると思ったが、「関ヶ原」でも天皇を描くことは避けている。

が、二箇所、「天皇の権威」に触れているところを確認して安心した。「SHOGUN」のように逃げてしまったわけではない。製作費が足りないから描かなかっただけだ。


2025/02/04 (火)

アナーバー日記。その2。


1月23日。木曜日。
ミシガン大学にはアナーバーのダウンタウンと渾然一体となったセントラル・キャンパスの他に、車で10分ほどの郊外の丘陵地帯に広がるノース・キャンパスがある。卒業生のアーサー・ミラーの業績を記念するモダンなアーサー・ミラー・シアターもここにはある。マーカスは、そこからさらに5分ほど走らせたノースキャンパスと森林地帯の境にある倉庫ビルに私を連れて行ってくれた。

雪景色の中で異彩を放つその巨大長方形の建物は、どこぞの惑星の銀色の砦に見える。マーカスはその建物をMAVERICK COLLECTIONと呼んだ。シャッターが降りた搬入口の脇にある通用口に、そのコレクションの管理を任されているフィルが現れ、我々を中に入れてくれた。

「エイリアン」と「スター・ウォーズ」と「シルクウッド」が合わさったビルにようこそ、と彼は言う。天井が高く広いメタリックな廊下が縦横に広がって各セクションが重いドアに仕切られた空間は宇宙船の内部のようでもある。だから最初の2作の引用はわかる。「シルクウッド」は、メリル・ストリープが演じたカレン・シルクウッドが働いていた核燃料工場のイメージで引用したのだろう。


フィルは坊主頭の巨漢。有能なライブラリアンだと、マーカスは言う。このビルには卒業生を中心に寄贈された膨大な量の書籍や資料が保管されている。映画関係だけでも、オーソン・ウェルズ、ロバート・アルトマン、ジョナサン・デミ、ローレンス・キャスダン、ジョン・セイルズの、それぞれの映画宇宙を彩る資料が収納されている。様々なプロップやポスター類もある。

オーソン・ウェルズの場合は「市民ケーン」で使用した黒い帽子も杖もあった。
様々なスケッチやアイデアが書かれたノートもあった。私が「関ヶ原」で参考にさせてもらった「フォルスタッフ」又は「CHIMES AT MIDNIGHT」のオリジナルの絵コンテもあった。これらは競売に出されたら7桁の値段がつくかもしれないレアものだ。フィルがウェルズの娘の知遇を得て寄贈されたのだと言う。

他の四人の監督の場合は、それぞれの部屋に100を越えるボックスが収納されている。彼らが携わった映画の詳細な資料やメモが詰まった宇宙だ。人間的には問題あるが、整理能力に優れているのはローレンス・キャスダンだ、とフィルは言う。寄贈された時点で、完璧な目録ができていたらしい。

私の映画人生はおそらくボックスにして20個あるかないかだろう。アメリカで映画を作ると言うことは、エージェントや弁護士、ステュディオ重役たちとのやり取りだけで膨大な量のメモが残る。その差は大きい。ストレスも巨大だ。

フィルは2時間かけて映画宝庫を案内してくれた。私はひたすら圧倒され、オーソン・ウェルズの黒い帽子を被って記念写真におさまった。


ディナーは夜の「関ヶ原」上映に備えて早めに食べた。アナーバーの人気レストランのひとつSAVA’S。ギリシャ系の店だ。私はギリシャ風サラダのハーフとフィッシュ&チップスを頼んだが、またしても大部分がテイクアウトだった。

前夜のディナーはCJSの三人の女性教授たちと超人気のMANI OSTERIAでのイタメシだった。そこでは時差ぼけもあって食欲もうつろで、女性陣のオーダーした品々を摘む程度だった。

この夜の場合は、マーカスの親友でもある音楽関係の仕事をしているピーターと男三人でのディナー。ピーターは大阪西成区の住民だったこともあり、完璧な大阪弁を話すインテリだ。数時間後に控えた「関ヶ原」Q &Aに備え英語感覚を養いたい私の気持ちを二人は察してくれて、会話は英語で通したけれど。

「関ヶ原」の冒頭挨拶を、次週、その次の週と続く日本の三大変革期のことを話すか、それとも、最近私が思うに至った三成、土方、阿南陸相という三人の主人公のアルベール・カミュ的生き方の共通項を話すべきか、と相談するとピーターは即座に、カミュ、と答えた。マーカスも、日本の三大変革期に関しては上映後の質疑応答で、自分が振ると提案してくれた。

カミュ的生き方というのは、不条理から逃れらないがニヒリズムに走ることがない生き方のことで、最近読み始めたカミュの諸作によって、カミュも、三成も、土方も、阿南陸相も、志半ばによる不条理な死を迎えたと考えるようになったためだ。


上映会はとてもいい雰囲気で始まり、上映後のトーク・イヴェントも1時間に及んだ。私も久しぶりに大画面で「関ヶ原」を鑑賞し、改めて、我がスタッフ、キャストの熱気を堪能した

「SHOGUN」の1話と2話を劇場で見た時、天皇制に一切触れてないゆえにオーセンティシティに著しく欠けていると思ったが、「関ヶ原」でも天皇を描くことは避けている。

が、二箇所、「天皇の権威」に触れているところを確認して安心した。「SHOGUN」のように逃げてしまったわけではない。製作費が足りないから描かなかっただけだ。


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