2020/06/30 (火)

5月6月の映像シャワーと「わたしの若草物語」の問題点。


 5月と6月の映像シャワーは、脚本作業が流れに乗ったため、かなり限られたものになった。その中で、一番大きな収穫は映画館でAクラスの映画を見ることが出来たこと。それが「ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」だ。ただし、Aクラスというのは製作費の面だけで、作品の出来は、とてもAクラスというわけにはいかなかった。
 興味をそそられたのは最初の10分弱。以降の展開は7年の時差がある原作の「若草物語」と「続・若草物語」をカットバックさせていくわけだが、この行ったり来たりに能がない。「時の流れ」感は皆無で姉妹たちはやたらにハグを連発する。まるでそれだけが唯一の高揚感情表現であるかのように。歌い出さないのが不思議なくらい宝塚歌劇っぽい。簡単に言えば、展開がたるい。唯一アカデミー賞を受賞した衣装デザインも、当時のファッションに忠実であっても色調、着こなしともにだっさーい。



 さらに、私はアレキサンダー・デスプラのフォーミュラ化された「壁紙スコア」が嫌いゆえ、音楽が死ぬ程うるさかった。ちなみに壁紙スコアというのは英語でいうWALL TO WALL MUSICの日本語意訳で、隙間なく貼られた壁紙のように映像にべったりくっついたネバネバ無神経スコアのことをいう。

 そして、何よりも落胆したのは四姉妹のキャスティングの愚劣さ。スターとスター候補生を並べ立てただけの悪趣味で低俗な選択なのだ。

 先ず主役たるシアーシャ・ローナン。インディペンデント・ウーマンであるジョーの器ではない。彼女が効果的なのは内省的な役。こういうエネルギッシュで攻めのキャラになると(おそらく本人にはないものなのだろう)、無理して帳尻合わせをした上滑りが鼻につく。ある種の「どや顔」だ。それも演劇クラスでの、どうや、うまいやろ感覚。マーヴィン・ルロイ版のジューン・アリソンはボーイッシュな魅力をふりまいたが、シアーシャにはそれが欠けている。殊に、短髪にしたときの老け顔には興ざめだった。



 長女メグを演ずるエマ・ワトソンは、生年月日では長女だが、そう見えないし、それに輪をかけて芝居が幼稚だ。三女ベスのエリザ・スカンレン。将来伸びることは間違いないが、ここでは長女顔の陰気芝居で1949年版のマーガレット・オブライエンのイノセンスのかけらもない。

 最悪は四女のエイミーだ。近年最も突出したミスキャストと言っていい。演ずるフローレンス・ピューは演技巧者である。これは認める。ルックスにエレガンスのかけらもないのに「リトル・ドラマー・ガール」ではその演技のアーチで私を魅了した。(「ミッドサマー」が一部で評価されたのも彼女の演技力の成果だろう。私は、この監督の「ヘレディタリー」が嫌いだから、作品を見ようとも思わないが)。
 
 フローレンスの顔は、どう攻めても落ちない難攻不落の頑丈顔だ。体型は歴戦の女闘士。若き日のエリザベス・「絶世の美女」・テイラーが光を与えた役に、こういう演技力のみで輝く女優を抜擢するのは狂気の沙汰だ。泣いても喚いても笑ってもフローレンスは末娘には見えない。

 しかも、フローレンスを末娘に抜擢したいがために、彼女より実年齢では3才年下のエリザに「老け」のメイクを加えて三女ベスに据えたわけだ。フローレンスの配役がエリザの足まで引っ張ったことになる。
 四姉妹が劇中劇の芝居以上に底の浅いアマチュア演劇のアンサンブルに堕してしまった。



 当然ながら、こういった配役の最終判断は「売れっ子」女性監督グレタ・ガーウィグがした筈だ。この一点をもってしても、グレタは勘違い監督の群れに投げ込んで構わない。 

 先にも触れたように脚本構成はとにかくヘタだ。

 度肝を抜く理不尽描写は、7年の時を経た二度の「ベスがベッドにいない」とベッド脇で目覚めてパニックになるジョーのエピソードだ。一度目はありうる。二度目は「郵便配達は二度ベルを鳴らす」じゃあるまいし、ありえない。「劇的効果」のための実に安っぽいダブル・ブッキングだ。次の一文はネタばれになるので読み進む人は心して読んで欲しい。



 つまり、妹が息を引き取ったベッドの脇でぐっすり眠っているジョーを起こさないという決断を下す母親がいるか?という話になる。そんなものはどこの国にもいないし、妹の遺体が運び出されて行くのをまったく気付かず眠りこけている姉というのもありえない。なんでこんなバカをしたのかというと、7年前の出来事とリンクさせたい「劇的効果」のためだ。劇的展開を優先させた演出の底の浅さは全篇に疫病の紫斑のように散りばめられている。

 そういう物差しで映画を再考すると、この映画の問題点はオープニング・エピソードからあったことに思い当たる。「7年後」のジョーが、出版社のドアの前で佇む背中のアングルから映画は始まる。次のショットは室内からドア向けのアングルに切り替わり、ドアを開けたジョーが勢い良く社内に入って、にぎやかな社員たちの間を抜けて一気に、出版社社長と思しきトレイシー・レッツのデスクに行く。

 それが、トレイシー・レッツがそこにいるから行った、としか見えない。つまり、猥雑なニューヨーカーが入り乱れるそこそこに広い編集部のような室内で、誰とも交わることもなく、処女短編を持った田舎娘が真っすぐに出版社社長に達することの違和感が残る。



 それはつまり、グレタが、主役および主要キャストの動線だけは演出できるが、エキストラを含む脇との絡みを立体的に構築できないレベルの監督である、ということを証明している。

 その主要キャストといえば、ティモシー・シャラメもローラ・ダーンもメリル・ストリープもクリス・クーパーもルイ・ガレルもボブ・オーデンカークも、実力派がすべて無惨もしくは凡庸の出来に堕している。C・オーブリー・スミスのような格調ある長身英国貴族俳優が確立したローレンス役を、老けて益々下品度が増したクリス・クーパーにふったグレタの魂胆がまったくわからない。
 
 無論、シャラメとシアーシャの演技セッションには化学反応のいいものも二カ所あるが(殊にバルコニーでのダンス)、それは映画の本筋とは無関係の、役者の実力を測る「腐っても鯛」のおまけでしかない。

 こういう底の浅いリメーク作品を、アメリカの批評家は大絶賛している。満点大絶賛の女性批評家の数の多さは異常だ。19世紀文学に今風のインディペンデント・ウーマンの主張を持ち込んだのが嬉しいようだが、脚本演出の力量不足は映画作りの現場力学を知る者が見れば明らかだ。当然ながらグレタはDGAでもアカデミー監督賞でもノミネートはされなかった。

 グレタ・ガーウィグはこの一作で、過大評価される女性監督のフロント・ランナーとなった。作品評価はC+。



この時期に浴びた映像シャワーのリストは以下のとおり。

NETFLIXで「土と血」。ジュリアン・ルクレルク演出の単調なフランス犯罪映画。役者はOK。評価はB。

AMAZONで「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」。CG偏重の戦車戦がつまらなかった。ロシアン・エンタメはプロットが粗雑。評価はC+。

NETFLIXで「パターソン」。ジャームッシュでは一番好きな作品かも。アダム・ドライヴァーで見せるもゴルシフテの英語芝居もうまい。ラストで登場の永瀬の英語芝居もいい。ニュー・ジャージー州パターソンのロケが秀逸。評価はA。



DVDで「新しき世界」。評判の高かった2012年の韓国ノアールをやっと見た。チョン・チョン役のファン・ジンミンの演技が突出している。彼ひとりで後半をもたせた感じ。ただし、空港での登場シーンは安っぽい。おそらく映画製作過程の最初の方に撮ったエピソードではないか。その後、監督ではなく、ファン自身が入念に役作りしてチョン・チョン役の愛すべき危険度を研ぎ澄まさせていったように思える。

なぜ監督の功績ではないと断言できるかというと、主役のイ・ジョンジェ以下、ほぼ全員が役の魅力も演技力もないからだ。とにかく、ちょい役の役者がお粗末な顔のアンサンブルであることに驚く。

パク・クンジョンは映像センスも演出センスもイマイチ。脚本はズサン。ヴェテラン俳優のチェ・ミンシクは手堅いが役に無理がある。なんのための潜入捜査官なのかまったくわからない。こういう展開ならそもそも捜査官を潜入させる必要もなく、ヤクザを懐柔すればいいだけの話に思える。第一、理事会と呼ばれる組織のシノギがなんなのか、まったく見えて来ない。

エピローグは「ゴッドファーザーPART2」へのオマージュ。ここでもいいのはファン・ジンミンだけ。イ・ジョンジェは無惨。チョン・チョンと延安の4人組の存在だけが取り柄。評価はB+。

NETFLIXでシリーズ「TREADSTONE」第一話。大風呂敷ジェイソン・ボーン・スリラーでバカバカしくなり一話でリタイア。評価はC。

WOWOWで「セラヴィ!」 結婚式請け負いチームの一日のドタバタが「最強のふたり」監督チームの手にかかり、上質で心温まるコメディに仕上がった。「フォー・ウェディング」のようにアンサンブル・キャストがよく演出のツボも確実に押さえている。ジャン・ピエール・バクリ以下のキャストが適材適所。
アイ・アイダラ、ジル・ルルーシュ、ヴァンサン・マケーニュ、アイバン・イワノフが殊によかった。評価はA-。


2020/06/30 (火)

5月6月の映像シャワーと「わたしの若草物語」の問題点。


 5月と6月の映像シャワーは、脚本作業が流れに乗ったため、かなり限られたものになった。その中で、一番大きな収穫は映画館でAクラスの映画を見ることが出来たこと。それが「ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」だ。ただし、Aクラスというのは製作費の面だけで、作品の出来は、とてもAクラスというわけにはいかなかった。
 興味をそそられたのは最初の10分弱。以降の展開は7年の時差がある原作の「若草物語」と「続・若草物語」をカットバックさせていくわけだが、この行ったり来たりに能がない。「時の流れ」感は皆無で姉妹たちはやたらにハグを連発する。まるでそれだけが唯一の高揚感情表現であるかのように。歌い出さないのが不思議なくらい宝塚歌劇っぽい。簡単に言えば、展開がたるい。唯一アカデミー賞を受賞した衣装デザインも、当時のファッションに忠実であっても色調、着こなしともにだっさーい。



 さらに、私はアレキサンダー・デスプラのフォーミュラ化された「壁紙スコア」が嫌いゆえ、音楽が死ぬ程うるさかった。ちなみに壁紙スコアというのは英語でいうWALL TO WALL MUSICの日本語意訳で、隙間なく貼られた壁紙のように映像にべったりくっついたネバネバ無神経スコアのことをいう。

 そして、何よりも落胆したのは四姉妹のキャスティングの愚劣さ。スターとスター候補生を並べ立てただけの悪趣味で低俗な選択なのだ。

 先ず主役たるシアーシャ・ローナン。インディペンデント・ウーマンであるジョーの器ではない。彼女が効果的なのは内省的な役。こういうエネルギッシュで攻めのキャラになると(おそらく本人にはないものなのだろう)、無理して帳尻合わせをした上滑りが鼻につく。ある種の「どや顔」だ。それも演劇クラスでの、どうや、うまいやろ感覚。マーヴィン・ルロイ版のジューン・アリソンはボーイッシュな魅力をふりまいたが、シアーシャにはそれが欠けている。殊に、短髪にしたときの老け顔には興ざめだった。



 長女メグを演ずるエマ・ワトソンは、生年月日では長女だが、そう見えないし、それに輪をかけて芝居が幼稚だ。三女ベスのエリザ・スカンレン。将来伸びることは間違いないが、ここでは長女顔の陰気芝居で1949年版のマーガレット・オブライエンのイノセンスのかけらもない。

 最悪は四女のエイミーだ。近年最も突出したミスキャストと言っていい。演ずるフローレンス・ピューは演技巧者である。これは認める。ルックスにエレガンスのかけらもないのに「リトル・ドラマー・ガール」ではその演技のアーチで私を魅了した。(「ミッドサマー」が一部で評価されたのも彼女の演技力の成果だろう。私は、この監督の「ヘレディタリー」が嫌いだから、作品を見ようとも思わないが)。
 
 フローレンスの顔は、どう攻めても落ちない難攻不落の頑丈顔だ。体型は歴戦の女闘士。若き日のエリザベス・「絶世の美女」・テイラーが光を与えた役に、こういう演技力のみで輝く女優を抜擢するのは狂気の沙汰だ。泣いても喚いても笑ってもフローレンスは末娘には見えない。

 しかも、フローレンスを末娘に抜擢したいがために、彼女より実年齢では3才年下のエリザに「老け」のメイクを加えて三女ベスに据えたわけだ。フローレンスの配役がエリザの足まで引っ張ったことになる。
 四姉妹が劇中劇の芝居以上に底の浅いアマチュア演劇のアンサンブルに堕してしまった。



 当然ながら、こういった配役の最終判断は「売れっ子」女性監督グレタ・ガーウィグがした筈だ。この一点をもってしても、グレタは勘違い監督の群れに投げ込んで構わない。 

 先にも触れたように脚本構成はとにかくヘタだ。

 度肝を抜く理不尽描写は、7年の時を経た二度の「ベスがベッドにいない」とベッド脇で目覚めてパニックになるジョーのエピソードだ。一度目はありうる。二度目は「郵便配達は二度ベルを鳴らす」じゃあるまいし、ありえない。「劇的効果」のための実に安っぽいダブル・ブッキングだ。次の一文はネタばれになるので読み進む人は心して読んで欲しい。



 つまり、妹が息を引き取ったベッドの脇でぐっすり眠っているジョーを起こさないという決断を下す母親がいるか?という話になる。そんなものはどこの国にもいないし、妹の遺体が運び出されて行くのをまったく気付かず眠りこけている姉というのもありえない。なんでこんなバカをしたのかというと、7年前の出来事とリンクさせたい「劇的効果」のためだ。劇的展開を優先させた演出の底の浅さは全篇に疫病の紫斑のように散りばめられている。

 そういう物差しで映画を再考すると、この映画の問題点はオープニング・エピソードからあったことに思い当たる。「7年後」のジョーが、出版社のドアの前で佇む背中のアングルから映画は始まる。次のショットは室内からドア向けのアングルに切り替わり、ドアを開けたジョーが勢い良く社内に入って、にぎやかな社員たちの間を抜けて一気に、出版社社長と思しきトレイシー・レッツのデスクに行く。

 それが、トレイシー・レッツがそこにいるから行った、としか見えない。つまり、猥雑なニューヨーカーが入り乱れるそこそこに広い編集部のような室内で、誰とも交わることもなく、処女短編を持った田舎娘が真っすぐに出版社社長に達することの違和感が残る。



 それはつまり、グレタが、主役および主要キャストの動線だけは演出できるが、エキストラを含む脇との絡みを立体的に構築できないレベルの監督である、ということを証明している。

 その主要キャストといえば、ティモシー・シャラメもローラ・ダーンもメリル・ストリープもクリス・クーパーもルイ・ガレルもボブ・オーデンカークも、実力派がすべて無惨もしくは凡庸の出来に堕している。C・オーブリー・スミスのような格調ある長身英国貴族俳優が確立したローレンス役を、老けて益々下品度が増したクリス・クーパーにふったグレタの魂胆がまったくわからない。
 
 無論、シャラメとシアーシャの演技セッションには化学反応のいいものも二カ所あるが(殊にバルコニーでのダンス)、それは映画の本筋とは無関係の、役者の実力を測る「腐っても鯛」のおまけでしかない。

 こういう底の浅いリメーク作品を、アメリカの批評家は大絶賛している。満点大絶賛の女性批評家の数の多さは異常だ。19世紀文学に今風のインディペンデント・ウーマンの主張を持ち込んだのが嬉しいようだが、脚本演出の力量不足は映画作りの現場力学を知る者が見れば明らかだ。当然ながらグレタはDGAでもアカデミー監督賞でもノミネートはされなかった。

 グレタ・ガーウィグはこの一作で、過大評価される女性監督のフロント・ランナーとなった。作品評価はC+。



この時期に浴びた映像シャワーのリストは以下のとおり。

NETFLIXで「土と血」。ジュリアン・ルクレルク演出の単調なフランス犯罪映画。役者はOK。評価はB。

AMAZONで「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」。CG偏重の戦車戦がつまらなかった。ロシアン・エンタメはプロットが粗雑。評価はC+。

NETFLIXで「パターソン」。ジャームッシュでは一番好きな作品かも。アダム・ドライヴァーで見せるもゴルシフテの英語芝居もうまい。ラストで登場の永瀬の英語芝居もいい。ニュー・ジャージー州パターソンのロケが秀逸。評価はA。



DVDで「新しき世界」。評判の高かった2012年の韓国ノアールをやっと見た。チョン・チョン役のファン・ジンミンの演技が突出している。彼ひとりで後半をもたせた感じ。ただし、空港での登場シーンは安っぽい。おそらく映画製作過程の最初の方に撮ったエピソードではないか。その後、監督ではなく、ファン自身が入念に役作りしてチョン・チョン役の愛すべき危険度を研ぎ澄まさせていったように思える。

なぜ監督の功績ではないと断言できるかというと、主役のイ・ジョンジェ以下、ほぼ全員が役の魅力も演技力もないからだ。とにかく、ちょい役の役者がお粗末な顔のアンサンブルであることに驚く。

パク・クンジョンは映像センスも演出センスもイマイチ。脚本はズサン。ヴェテラン俳優のチェ・ミンシクは手堅いが役に無理がある。なんのための潜入捜査官なのかまったくわからない。こういう展開ならそもそも捜査官を潜入させる必要もなく、ヤクザを懐柔すればいいだけの話に思える。第一、理事会と呼ばれる組織のシノギがなんなのか、まったく見えて来ない。

エピローグは「ゴッドファーザーPART2」へのオマージュ。ここでもいいのはファン・ジンミンだけ。イ・ジョンジェは無惨。チョン・チョンと延安の4人組の存在だけが取り柄。評価はB+。

NETFLIXでシリーズ「TREADSTONE」第一話。大風呂敷ジェイソン・ボーン・スリラーでバカバカしくなり一話でリタイア。評価はC。

WOWOWで「セラヴィ!」 結婚式請け負いチームの一日のドタバタが「最強のふたり」監督チームの手にかかり、上質で心温まるコメディに仕上がった。「フォー・ウェディング」のようにアンサンブル・キャストがよく演出のツボも確実に押さえている。ジャン・ピエール・バクリ以下のキャストが適材適所。
アイ・アイダラ、ジル・ルルーシュ、ヴァンサン・マケーニュ、アイバン・イワノフが殊によかった。評価はA-。


2020/06/29 (月)

創作活動は止まらない。


 「燃えよ剣」の公開はいつになるのだろうか、と考えながら日々、創作活動に取り組んでいます。5月になって、こうやってコロナ禍で籠城するならば、「いつか書こう」と先送りしていたA級企画の脚本作業に取り組むべき時が到来したのではないか、と考えたのです。

 とりあえず、このA級企画は「プロジェクトH」と呼ぶことにします。HはHARADAのHという感じ。これはある意味、私が映画化して来た日本史に於ける三大変革期のうちのひとつと密接な関わりを持っています。(つまり、1600年か1868年か1945年の話ですね。)

 A級企画と呼ぶのは作品のスケールは勿論、キャストも日米の演技派を散りばめたいと考えているからです。脚本は誰かに依頼されたわけではないから、ON SPECと呼ばれる投機的なもの。しかも、膨大な資料を読み込まねばならない。今まで買い貯めた関連書籍と5月にアマゾンでオーダーした書籍を合わせると軽く30册を超えました。

 そうやって読んでは書き、書いては読んでチェックして書き直すという作業を続けて来たわけです。



 不退転の決意で、プロジェクトHに没頭して二ヶ月、6月20日を過ぎてエピローグを見通せる位置まで来ることができました。そこから一週間程度熟成させて直しの作業に入るつもりです。

 同時に、かつて映画化を熱望していたある犯罪小説の企画が動き始めました。で、この原作を3時間で再読して、自分の発想で飾り付け、10ページ強のシノプシスを書きました。「プロジェクトBAD」と呼ぶことにします。

 さらには、10年近く模索している政治スリラー「プロジェクトGOOD」も改稿し、信頼できるプロデューサーに託した、のが一昨日。

 ここまでやる気が出たのは「コロナのおかげ」でしょうね。世界を股に掛けて活動できないひどい時代ではありますが、心ひとつで希望の明かりは灯せます。


2020/06/29 (月)

創作活動は止まらない。


 「燃えよ剣」の公開はいつになるのだろうか、と考えながら日々、創作活動に取り組んでいます。5月になって、こうやってコロナ禍で籠城するならば、「いつか書こう」と先送りしていたA級企画の脚本作業に取り組むべき時が到来したのではないか、と考えたのです。

 とりあえず、このA級企画は「プロジェクトH」と呼ぶことにします。HはHARADAのHという感じ。これはある意味、私が映画化して来た日本史に於ける三大変革期のうちのひとつと密接な関わりを持っています。(つまり、1600年か1868年か1945年の話ですね。)

 A級企画と呼ぶのは作品のスケールは勿論、キャストも日米の演技派を散りばめたいと考えているからです。脚本は誰かに依頼されたわけではないから、ON SPECと呼ばれる投機的なもの。しかも、膨大な資料を読み込まねばならない。今まで買い貯めた関連書籍と5月にアマゾンでオーダーした書籍を合わせると軽く30册を超えました。

 そうやって読んでは書き、書いては読んでチェックして書き直すという作業を続けて来たわけです。



 不退転の決意で、プロジェクトHに没頭して二ヶ月、6月20日を過ぎてエピローグを見通せる位置まで来ることができました。そこから一週間程度熟成させて直しの作業に入るつもりです。

 同時に、かつて映画化を熱望していたある犯罪小説の企画が動き始めました。で、この原作を3時間で再読して、自分の発想で飾り付け、10ページ強のシノプシスを書きました。「プロジェクトBAD」と呼ぶことにします。

 さらには、10年近く模索している政治スリラー「プロジェクトGOOD」も改稿し、信頼できるプロデューサーに託した、のが一昨日。

 ここまでやる気が出たのは「コロナのおかげ」でしょうね。世界を股に掛けて活動できないひどい時代ではありますが、心ひとつで希望の明かりは灯せます。


 a-Nikki 1.02