2025/06/26 (木)

「国宝」はなぜカンヌのコンペではなかったのか。


174分の映画「国宝」の口コミが凄まじい。その大きな波に乗り、興収は60億円に届くかもしれないという。すごいことだ。日本でも丹念に作られた大人の映画が数字を叩き出す時代なのか。それとも何か違うことが起きているのか。

ここ2ヶ月、私は引きこもりがちで脚本に取り組んでいた。配信はこまめにチェック、かなりの本数は見た。本も随分と読んだ。が、3月末に「教皇選挙」と「エミリア・ペレス」を立て続けに見たあと、映画館へ行くのが随分と億劫に感じられるようになった。4月、5月は一本も見ていない。

一番大きな理由は、トイレが近いことかもしれない。「オッペンハイマー」の3時間を持ちこたえたのは奇跡中の奇跡で、だいたい上映開始90分前後でトイレに行きたくなる。エンドクレジットが始まると二回目のダッシュになる。

6月になって、見るべき映画がどんどん増えてきた。それで、某日、途中で抜けても絶対に筋を見失わない長尺作品を選んで劇場へ足を運んだ。いわば「国宝」を見るための「調整登板」だ。

それが「ミッション・インポッシブル/ファイナル・レコニング」。169分。

前作「デッド・レコニングPART1」で「クリストファ・マッカリーが監督にクレディットされている作品はもう見ない」と宣言したその続編だ。

結果は、スクリーンのトム・クルーズの走る姿をイメージしながら、トイレを求めて劇場ホールを走り回ることになった。久しぶりの109シネマ木場での観賞だったのでトイレの位置を誤解していた。

ここのトイレはもぎりのずっと手前、コンセッション・スタンド脇の通路奥にしかない。ユナイテッド・シネマ豊洲のように、もぎりの外と中に設置してないから遠い。危なかった。イーサンの危機一髪よりも、私的な危機一髪の方がスリリングだった。

作品は、大ボラ話の回収にエネルギーを浪費している凡作に思えた。アクションは派手であればあるほどキャラクターの魅力を食い潰しているようにも見える。唯一感心したのは沈没した潜水艦セバストポリにイーサンが乗り込むくだり。あれは大掛かりなセットを組んで手間暇かけた見せ場に昇華されているように見える。職人たちのプライドを感じた。


「国宝」の鑑賞劇場は客席からトイレの距離を考慮してユナイテッド・シネマ豊洲を選んだ(大混雑の日比谷の映画館は敬遠した)。ここのスクリーン1でE列を選べば、階段を降りることもなく水平移動で緩やかなスロープを降り、ドアまで5秒。ドアを開けて右手のトイレまでの距離も20メートル弱だ。

作品の感想としては、喜久雄(吉沢亮)が師匠の代役としてお初を演ずる「曽根崎心中」あたりまでの前半は文句なしに素晴らしい。

ソフィアン・エル・ファニの自然光を生かした撮影、そのトーンを見事に繋げる中村裕樹の照明、そして種田陽平の美術にうっとりする。

演技陣もいい。吉沢亮、渡辺謙、田中泯がここまでできるなら、と歌舞伎役者の不在をほとんど感じなかった。喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢など「怪物」に出ていたことはすっかり忘れて、歌舞伎名門の御曹司ではないかと思いこんでいたほどだ。

この傑作がなぜカンヌ映画祭のコンペではなく監督週間でのプレミアになったのか、悪名たかきカンヌの政治力ではないのか、などと自問しながら、私は映画にのめり込んでいた。


その高揚が、お初を演ずる吉沢亮の熱演をピークに、ゆっくりと萎み始める。

「上映時間2時間あたりまでは大傑作。コンセプトとしては『イヴの総て』。その女帝ベット・ディヴィスが堕ちたからターも堕とさねばならないという作り手の創作意欲を超えた{悪意}が剥き出しになるラスト40分の転落オーディールが支離滅裂」 

これはケイト・ブランシェット主演の「ター」を見た時の私の感想だ。

「国宝」にもこれと似た感想を抱いた。支離滅裂ではないが、こちらの方は韓流メロドラマに近い流儀がある。それゆえの大ヒットであり、カンヌのコンペからはじかれたとしたらそこかとも思う。


堕ちる俊介&春江の現代の「道行き」はリアルタイムでは描かれないが、このペア成立が弱い。

もう一つの喜久雄&彰子の落下の「道行き」は、描かれはするものの展開も映像も、平板だ。

通俗メロドラマの匂いすら漂う。この二つの「道行き」を支える女たちが近松世界とは大違いで描写不足なのだ。

いずれにせよ、血を選ぶか芸を選ぶかのピークは最初の「曽根崎心中」のくだりだ。その後も、二人の対決で話を繋げるならば、悪魔と取引した喜久雄の「あがき」をもっと増やすべきだろう。

私は原作を読んでいないが、喜久雄がバイセクシュアルとして描かれていないのが不思議で仕方がなかった。


私のトイレ詣では、切羽詰まってということはなかった。

ただ、目の前を何人かの観客がトイレ目指して通過していくのを見ていると、どこかで行く必要性は意識した。高揚が萎み始めてからは、トイレへ行くタイミングを探りながらの鑑賞だったことも確かだ。

選んだのは、花井白虎と三代目半二郎襲名披露での美しい口上を聞いた後の「騒ぎ」。戻った時は、喜久雄と俊介が再会するくだりだった。


私が今、取り組んでいる企画の一つは、ある人物の一代記だ。

そこで意識しているのは時代の流れにつれて、後半での新戦力投入の必要性だ。

「国宝」では中村鴈治郎と森七菜がそれに近いが、私には響かなかった。瀧内公美は効果的だが、「新戦力」ではなかった。

私の考える「新戦力」は活力を持って主人公にぶつかって彼なり彼女なりの、それまで見せなかった表情を引き出す力のある「何か」だ。

興行の顔を、後半では不機嫌ふっくらの三浦貴大一人に背負わせたのも、私には退屈だった。


とはいえ、吉沢亮と横浜流星に一年半の訓練の時間を与え、これだけのスタッフを集め大作にまとめあげた李相日監督の映画作家として熱量はすごい。

まだ「ルノワール」は見ていないが、「さらば、わが愛/覇王別姫」にもメロドラマの要素は強かったわけで、私は「国宝」がカンヌのコンペに選ばれるべきだったと思う。

コンペの審査員たちは選考委員会のメンツと違って映画作りの現場に熟知した映画人である。彼らはどんな評価を下しただろうか。無冠で終わることはなかったのではないか。

それともうひとつ。

私は若い頃の一時期、おすぎと親しかったことがある。おすぎは歌舞伎にどっぷり浸かっていた。色々と教えてもくれた。元気だった頃のおすぎが「国宝」を見たら、どんな反応をしただろう。

そんなことも考えながら、エンドクレジットが始まるやいなや、私はトイレに走った。




2025/06/26 (木)

「国宝」はなぜカンヌのコンペではなかったのか。


174分の映画「国宝」の口コミが凄まじい。その大きな波に乗り、興収は60億円に届くかもしれないという。すごいことだ。日本でも丹念に作られた大人の映画が数字を叩き出す時代なのか。それとも何か違うことが起きているのか。

ここ2ヶ月、私は引きこもりがちで脚本に取り組んでいた。配信はこまめにチェック、かなりの本数は見た。本も随分と読んだ。が、3月末に「教皇選挙」と「エミリア・ペレス」を立て続けに見たあと、映画館へ行くのが随分と億劫に感じられるようになった。4月、5月は一本も見ていない。

一番大きな理由は、トイレが近いことかもしれない。「オッペンハイマー」の3時間を持ちこたえたのは奇跡中の奇跡で、だいたい上映開始90分前後でトイレに行きたくなる。エンドクレジットが始まると二回目のダッシュになる。

6月になって、見るべき映画がどんどん増えてきた。それで、某日、途中で抜けても絶対に筋を見失わない長尺作品を選んで劇場へ足を運んだ。いわば「国宝」を見るための「調整登板」だ。

それが「ミッション・インポッシブル/ファイナル・レコニング」。169分。

前作「デッド・レコニングPART1」で「クリストファ・マッカリーが監督にクレディットされている作品はもう見ない」と宣言したその続編だ。

結果は、スクリーンのトム・クルーズの走る姿をイメージしながら、トイレを求めて劇場ホールを走り回ることになった。久しぶりの109シネマ木場での観賞だったのでトイレの位置を誤解していた。

ここのトイレはもぎりのずっと手前、コンセッション・スタンド脇の通路奥にしかない。ユナイテッド・シネマ豊洲のように、もぎりの外と中に設置してないから遠い。危なかった。イーサンの危機一髪よりも、私的な危機一髪の方がスリリングだった。

作品は、大ボラ話の回収にエネルギーを浪費している凡作に思えた。アクションは派手であればあるほどキャラクターの魅力を食い潰しているようにも見える。唯一感心したのは沈没した潜水艦セバストポリにイーサンが乗り込むくだり。あれは大掛かりなセットを組んで手間暇かけた見せ場に昇華されているように見える。職人たちのプライドを感じた。


「国宝」の鑑賞劇場は客席からトイレの距離を考慮してユナイテッド・シネマ豊洲を選んだ(大混雑の日比谷の映画館は敬遠した)。ここのスクリーン1でE列を選べば、階段を降りることもなく水平移動で緩やかなスロープを降り、ドアまで5秒。ドアを開けて右手のトイレまでの距離も20メートル弱だ。

作品の感想としては、喜久雄(吉沢亮)が師匠の代役としてお初を演ずる「曽根崎心中」あたりまでの前半は文句なしに素晴らしい。

ソフィアン・エル・ファニの自然光を生かした撮影、そのトーンを見事に繋げる中村裕樹の照明、そして種田陽平の美術にうっとりする。

演技陣もいい。吉沢亮、渡辺謙、田中泯がここまでできるなら、と歌舞伎役者の不在をほとんど感じなかった。喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢など「怪物」に出ていたことはすっかり忘れて、歌舞伎名門の御曹司ではないかと思いこんでいたほどだ。

この傑作がなぜカンヌ映画祭のコンペではなく監督週間でのプレミアになったのか、悪名たかきカンヌの政治力ではないのか、などと自問しながら、私は映画にのめり込んでいた。


その高揚が、お初を演ずる吉沢亮の熱演をピークに、ゆっくりと萎み始める。

「上映時間2時間あたりまでは大傑作。コンセプトとしては『イヴの総て』。その女帝ベット・ディヴィスが堕ちたからターも堕とさねばならないという作り手の創作意欲を超えた{悪意}が剥き出しになるラスト40分の転落オーディールが支離滅裂」 

これはケイト・ブランシェット主演の「ター」を見た時の私の感想だ。

「国宝」にもこれと似た感想を抱いた。支離滅裂ではないが、こちらの方は韓流メロドラマに近い流儀がある。それゆえの大ヒットであり、カンヌのコンペからはじかれたとしたらそこかとも思う。


堕ちる俊介&春江の現代の「道行き」はリアルタイムでは描かれないが、このペア成立が弱い。

もう一つの喜久雄&彰子の落下の「道行き」は、描かれはするものの展開も映像も、平板だ。

通俗メロドラマの匂いすら漂う。この二つの「道行き」を支える女たちが近松世界とは大違いで描写不足なのだ。

いずれにせよ、血を選ぶか芸を選ぶかのピークは最初の「曽根崎心中」のくだりだ。その後も、二人の対決で話を繋げるならば、悪魔と取引した喜久雄の「あがき」をもっと増やすべきだろう。

私は原作を読んでいないが、喜久雄がバイセクシュアルとして描かれていないのが不思議で仕方がなかった。


私のトイレ詣では、切羽詰まってということはなかった。

ただ、目の前を何人かの観客がトイレ目指して通過していくのを見ていると、どこかで行く必要性は意識した。高揚が萎み始めてからは、トイレへ行くタイミングを探りながらの鑑賞だったことも確かだ。

選んだのは、花井白虎と三代目半二郎襲名披露での美しい口上を聞いた後の「騒ぎ」。戻った時は、喜久雄と俊介が再会するくだりだった。


私が今、取り組んでいる企画の一つは、ある人物の一代記だ。

そこで意識しているのは時代の流れにつれて、後半での新戦力投入の必要性だ。

「国宝」では中村鴈治郎と森七菜がそれに近いが、私には響かなかった。瀧内公美は効果的だが、「新戦力」ではなかった。

私の考える「新戦力」は活力を持って主人公にぶつかって彼なり彼女なりの、それまで見せなかった表情を引き出す力のある「何か」だ。

興行の顔を、後半では不機嫌ふっくらの三浦貴大一人に背負わせたのも、私には退屈だった。


とはいえ、吉沢亮と横浜流星に一年半の訓練の時間を与え、これだけのスタッフを集め大作にまとめあげた李相日監督の映画作家として熱量はすごい。

まだ「ルノワール」は見ていないが、「さらば、わが愛/覇王別姫」にもメロドラマの要素は強かったわけで、私は「国宝」がカンヌのコンペに選ばれるべきだったと思う。

コンペの審査員たちは選考委員会のメンツと違って映画作りの現場に熟知した映画人である。彼らはどんな評価を下しただろうか。無冠で終わることはなかったのではないか。

それともうひとつ。

私は若い頃の一時期、おすぎと親しかったことがある。おすぎは歌舞伎にどっぷり浸かっていた。色々と教えてもくれた。元気だった頃のおすぎが「国宝」を見たら、どんな反応をしただろう。

そんなことも考えながら、エンドクレジットが始まるやいなや、私はトイレに走った。




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