2018/10/11 (木)

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6年ぶりの南カリフォルニアへの旅から帰って、やっと旅行記をまとめる余裕ができたと思ったら訃報がふたつ。

「ラスト・サムライ」で共演して以来の盟友スコット・ウィルソンが76才で亡くなった。

その二日後には「突入せよ!あさま山荘事件」以来、親しくさせていただいた佐々淳行さんが87才で逝去された。

私は本日から関西方面のメインのロケハンに発つ。お二人の冥福を祈りつつ次回作の準備に邁進する。

合掌。合掌。


2018/09/22 (土)

希林さんを偲ぶ。


訃報が届いたのは9月16日の午後5時ころ。松竹京都撮影所での関西オーディションを終え、定宿のホテルにチェックインしたときだった。そのまま東京にとってかえし、お通夜の席に加わることも出来たが、入手できた情報では家族での密葬だという。何ヶ月も前からこの夜は京都で一番の鮨処「やぶ内」30周年記念の宴に出席する約束をしていたこともあった。帰京は、諦めた。予定通りことを進める方が、樹木さんの好みでもあるとも思った。

「やぶ内」の祝い事はホテル・オークラの大宴会場で展開した。名店を築き上げた店主夫婦の、京都人の誇りがきらきら輝く華やかでクラシー粋なショウであった。ハイライトは総勢二十数名の「祇園甲部の手打ち」。揃いの黒紋付をきりりと着こなした祇園甲部の芸妓衆が、拍子木を打ち鳴らして入場したときの清冽な感動。私は樹木さんとの豊かな創作の時を思い、宴に酔った。



どういう経緯があったにせよ、私にとって樹木さんの訃報は劇的な格調高さでもたらされたと思った。何かによって生かされているという感覚もそこにはある。運がいい、とも思う。おそらくは生涯一度のこの祇園甲部の手打ちの光景と、樹木さんの喪失感は私の中で完璧にリンクした。

そうやって樹木さんの「褒め言葉」を思い出した。「あなたは運が強いわね。(映画監督にとって)運も才能のうちよ」

この一言は「わが母の記」をクランクアップした直後のことだ。と書いて来て今夜はBSジャパンで「わが母の記」が放映されることを思い出した。


気になってリヴィングに行きTVをつける。いきなり八重を演ずる樹木さんのクロースアップ。洪作少年の詩を暗誦しているくだりだ。作家になった洪作の役所さんが受ける。泣き顔を隠すために洗面所へ走る。不審に思った三女の琴子が「何かあったの?」と語りかける。

樹木さん、役所さんの技巧も素晴らしいが、琴子を演ずるあおいちゃんの自然な名演にも改めて心を動かされる。

「わが母の記」ではこの三人が、私には「奇蹟の名演」を残してくれたと思う。殊に、中学生から30代の大人の女までを声のトーンに工夫し演じ切ったあおいちゃんの風雅は、今見ても新鮮な驚きを感ずる。いいなあ、素晴らしいなあ、と作品世界に酔っていたら「50才にはとても見えない山口さん!」というCMが入ってがっくり来た。

それでも、「茶の間に戻って来た」樹木さんを途中で見捨てる気になれず、最後まで見てしまった。わが作品ながら、本当にアンサンブルキャストが見事だと思う。私の功績というよりは集まってくれたキャストの「本気度」の問題だ。家族の顔ぶれがいいのは勿論、女中役の仁山もいいし、新人だった真野恵里菜もいい。大衆食堂のメンツも、橋本じゅん、大久保佳世子を筆頭に素晴らしい。船を見送る応援団も頑張っているし、船の乗客エキストラも俳優でかためただけの成果がある。その本気度の頂点に、樹木さん、役所さん、あおいちゃんがいる。



「わが母の記」はラストシーンの棺の中の母を撮ってクランクアップした。2011年3月10日のことだ。その翌日、東映の大泉撮影所での編集初日、東日本大震災が起きた。樹木さんが「運も才能のうち」と言ったのは、それからしばらくして再会したときだ。

「やぶ内」の宴は続き、その最中に静岡新聞から電話で取材を受けた。その数分後に朝日新聞から連絡が入り、樹木さんの追悼文を依頼された。明後日の夕方には入校したいという。翌日、オーディションの二日目をこなした後に執筆時間は確保できる。明後日は朝から京都周辺のロケハンだ。葬儀は9月30日。その二日前、私はサンフランシスコに発つ。彼の地の日本映画祭での「関ヶ原」上映に立ち会うためだ。通夜も葬儀も行けない私に、朝日の追悼文依頼は嬉しかった。追悼文の構想はその夜練ったが、書きたいことばかり思い浮かんでなんにもまとまらなかった。

問題は、私がこうやって長文を書いているワープロ仕様のパソコンを京都にはもってこなかったことだ。Iパッドでは一本指でしか文章を綴ることができない。となると、思考速度と書く速度が一致せず、書きたいことの山が頭の中でぐちゃぐちゃ大きくたまって駄文になる。

翌日、オーディションの後で町へ出て文房具店を探した。地下街の文房具店のはじっこの棚の隅、ノートとノートの間に不当に隔離された状態の400字詰め原稿用紙の「一袋」を見つけた。そうやって十何年ぶりかに原稿用紙に向かうことになった。とはいえ、原稿用紙の枚数は限りがある。下書きはノートブックに書いた。それを、一行12字で原稿用紙に写しながら推敲し、流れがほぼまとまったところで、Iパッドに清書した。

1200字書くのにたっぷり6時間かかった。運動靴を履いた樹木さんのイメージを追いかけ、あふれでる想い出を削りに削り朦朧としたころになってなんとかまとまりベッドに倒れ込んだ。翌朝、といっても5時間後だが、起きて改めてチェックすると、字数が大幅に超過していることがわかった。ロケハン出発の時間も迫っている。編集は朝日新聞の優秀な頭脳に委せることにした。



9月19日の朝日新聞朝刊に掲載された樹木さんの追悼文は実にうまく編集されていた。執筆していて最後の最後に朦朧とした意識の中で思い浮かんだのは、樹木さんは「大地の母」であったな、ということだった。

映画化のラインに乗るまでに紆余曲折があり、いくつもの困難を石塚プロデューサーが体を張って乗り越え、奇蹟ともいえる映画化に漕ぎ着けた「わが母の記」。

この映画作りが人生そのものであり、そこで君臨した絶対の母は「大地の母」なのだ、とうとうとしながら解釈し、「樹木さんはすべての映画監督の『大地の母』です」と結ぶことを決めた。

京都から戻って、南平台の樹木希林宅へ家族揃って弔問に行くことができた。樹木さんが亡くなってから東京はずっと雨だったという。「わが母の記」は雨のシーンで始まり、雨がようやくあがりつつある一時、終わる。そのオープニング、八重さんの若い頃を演じた娘の也哉子さんが迎えてくれた。彼女から、樹木さんの遺作がドイツの女性監督の作品だったことを知り、なんとなくほっとした。樹木さんはすべての国の映画監督の大地の母なのである。


2018/09/22 (土)

希林さんを偲ぶ。


訃報が届いたのは9月16日の午後5時ころ。松竹京都撮影所での関西オーディションを終え、定宿のホテルにチェックインしたときだった。そのまま東京にとってかえし、お通夜の席に加わることも出来たが、入手できた情報では家族での密葬だという。何ヶ月も前からこの夜は京都で一番の鮨処「やぶ内」30周年記念の宴に出席する約束をしていたこともあった。帰京は、諦めた。予定通りことを進める方が、樹木さんの好みでもあるとも思った。

「やぶ内」の祝い事はホテル・オークラの大宴会場で展開した。名店を築き上げた店主夫婦の、京都人の誇りがきらきら輝く華やかでクラシー粋なショウであった。ハイライトは総勢二十数名の「祇園甲部の手打ち」。揃いの黒紋付をきりりと着こなした祇園甲部の芸妓衆が、拍子木を打ち鳴らして入場したときの清冽な感動。私は樹木さんとの豊かな創作の時を思い、宴に酔った。



どういう経緯があったにせよ、私にとって樹木さんの訃報は劇的な格調高さでもたらされたと思った。何かによって生かされているという感覚もそこにはある。運がいい、とも思う。おそらくは生涯一度のこの祇園甲部の手打ちの光景と、樹木さんの喪失感は私の中で完璧にリンクした。

そうやって樹木さんの「褒め言葉」を思い出した。「あなたは運が強いわね。(映画監督にとって)運も才能のうちよ」

この一言は「わが母の記」をクランクアップした直後のことだ。と書いて来て今夜はBSジャパンで「わが母の記」が放映されることを思い出した。


気になってリヴィングに行きTVをつける。いきなり八重を演ずる樹木さんのクロースアップ。洪作少年の詩を暗誦しているくだりだ。作家になった洪作の役所さんが受ける。泣き顔を隠すために洗面所へ走る。不審に思った三女の琴子が「何かあったの?」と語りかける。

樹木さん、役所さんの技巧も素晴らしいが、琴子を演ずるあおいちゃんの自然な名演にも改めて心を動かされる。

「わが母の記」ではこの三人が、私には「奇蹟の名演」を残してくれたと思う。殊に、中学生から30代の大人の女までを声のトーンに工夫し演じ切ったあおいちゃんの風雅は、今見ても新鮮な驚きを感ずる。いいなあ、素晴らしいなあ、と作品世界に酔っていたら「50才にはとても見えない山口さん!」というCMが入ってがっくり来た。

それでも、「茶の間に戻って来た」樹木さんを途中で見捨てる気になれず、最後まで見てしまった。わが作品ながら、本当にアンサンブルキャストが見事だと思う。私の功績というよりは集まってくれたキャストの「本気度」の問題だ。家族の顔ぶれがいいのは勿論、女中役の仁山もいいし、新人だった真野恵里菜もいい。大衆食堂のメンツも、橋本じゅん、大久保佳世子を筆頭に素晴らしい。船を見送る応援団も頑張っているし、船の乗客エキストラも俳優でかためただけの成果がある。その本気度の頂点に、樹木さん、役所さん、あおいちゃんがいる。



「わが母の記」はラストシーンの棺の中の母を撮ってクランクアップした。2011年3月10日のことだ。その翌日、東映の大泉撮影所での編集初日、東日本大震災が起きた。樹木さんが「運も才能のうち」と言ったのは、それからしばらくして再会したときだ。

「やぶ内」の宴は続き、その最中に静岡新聞から電話で取材を受けた。その数分後に朝日新聞から連絡が入り、樹木さんの追悼文を依頼された。明後日の夕方には入校したいという。翌日、オーディションの二日目をこなした後に執筆時間は確保できる。明後日は朝から京都周辺のロケハンだ。葬儀は9月30日。その二日前、私はサンフランシスコに発つ。彼の地の日本映画祭での「関ヶ原」上映に立ち会うためだ。通夜も葬儀も行けない私に、朝日の追悼文依頼は嬉しかった。追悼文の構想はその夜練ったが、書きたいことばかり思い浮かんでなんにもまとまらなかった。

問題は、私がこうやって長文を書いているワープロ仕様のパソコンを京都にはもってこなかったことだ。Iパッドでは一本指でしか文章を綴ることができない。となると、思考速度と書く速度が一致せず、書きたいことの山が頭の中でぐちゃぐちゃ大きくたまって駄文になる。

翌日、オーディションの後で町へ出て文房具店を探した。地下街の文房具店のはじっこの棚の隅、ノートとノートの間に不当に隔離された状態の400字詰め原稿用紙の「一袋」を見つけた。そうやって十何年ぶりかに原稿用紙に向かうことになった。とはいえ、原稿用紙の枚数は限りがある。下書きはノートブックに書いた。それを、一行12字で原稿用紙に写しながら推敲し、流れがほぼまとまったところで、Iパッドに清書した。

1200字書くのにたっぷり6時間かかった。運動靴を履いた樹木さんのイメージを追いかけ、あふれでる想い出を削りに削り朦朧としたころになってなんとかまとまりベッドに倒れ込んだ。翌朝、といっても5時間後だが、起きて改めてチェックすると、字数が大幅に超過していることがわかった。ロケハン出発の時間も迫っている。編集は朝日新聞の優秀な頭脳に委せることにした。



9月19日の朝日新聞朝刊に掲載された樹木さんの追悼文は実にうまく編集されていた。執筆していて最後の最後に朦朧とした意識の中で思い浮かんだのは、樹木さんは「大地の母」であったな、ということだった。

映画化のラインに乗るまでに紆余曲折があり、いくつもの困難を石塚プロデューサーが体を張って乗り越え、奇蹟ともいえる映画化に漕ぎ着けた「わが母の記」。

この映画作りが人生そのものであり、そこで君臨した絶対の母は「大地の母」なのだ、とうとうとしながら解釈し、「樹木さんはすべての映画監督の『大地の母』です」と結ぶことを決めた。

京都から戻って、南平台の樹木希林宅へ家族揃って弔問に行くことができた。樹木さんが亡くなってから東京はずっと雨だったという。「わが母の記」は雨のシーンで始まり、雨がようやくあがりつつある一時、終わる。そのオープニング、八重さんの若い頃を演じた娘の也哉子さんが迎えてくれた。彼女から、樹木さんの遺作がドイツの女性監督の作品だったことを知り、なんとなくほっとした。樹木さんはすべての国の映画監督の大地の母なのである。


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