2020/12/02 (水)

チャップリン映画と11月までの映像シャワー残。


チャップリンの映画は見ているが、関連書籍は英語本5冊を含む10冊ほど買ってしまいチャップリン研究はなかなか進まない。とはいえ、チャップリンがパフォーマー兼映画作家として偉大なことは間違いないが、我がBIG12と入れ替えることはないだろうね。とりあえず、この秋から冬にかけて見たチャップリン映画を観賞順に再評価しておく。

「街の灯」A- 
ラストを「モダン・タイムス」と混同していた。そのラスト、「そうそう、あれってぼくぼく」の表情がいやらしいので減点。

「モダン・タイムス」A+
まぎれもなくチャップリンの最高傑作。ジブリッシュ・ソングで初めて声を聞かせるという絶妙な演出。そこまでの展開も巧みな見せ場てんこもり。サイレント映画の終焉から10年を経て、このパート・トーキーでひとつの時代に訣別を告げたチャップリンの作家性に感動した。

「独裁者」B+
以前見た時も感じたが、脚本が雑。MISTAKEN IDENTITYの混沌が問題だ。部分的には床屋のハンガリー舞曲、地球儀バルーン、ジャック・オーキーのムッソリーニ/ナパロニとの稚気あふれる確執など、素晴らしいエピソードは多い。ラストのスピーチへの運びが強引過ぎる。映画はサイレントからトーキーになって、インパクトだけでなくロジックも要求されるようになった。そこに、チャップリンはまだ慣れていなかった。レジナルド・ガーディナー演ずるシュルツの扱いがご都合主義で形が悪い。ヒトラーをコケにした勇気は買えるが、今見ると、「敢えて」求めたハリボテの安っぽいセットが虚しい。封切当時はヒトラーの壮大な独裁王国が観客の意識に根付いていたからアイロニーとして輝いていたのだが。



「ライムライト」B+
さすがにステージ部分は魅せる。バスター・キートンのゲスト出演も粋。

「殺人狂時代」A
再再見。今回が一番気に入ったと思う。運命の輪が廻る脚本のブックエンドが秀逸。マーサ・レイを筆頭とする標的スピンスターのキャスティングと、THE GIRL役の新人マリリン・ナッシュのコントラストが素晴らしい。ドシロウトのマリリンには相当手を焼き、製作途中でオーディションをしてバックアップのザ・ガールを見つけ、映画では前例のないダブル・キャストで臨んだ撮影らしいが、マリリンのデキは見事だ。ヴェルドゥが彼女に毒を盛るくだりはチャップリンが毒殺されたかもしれないという体験に基づいているのが面白い。ラストは無論、暗黒の時代への予感、放浪紳士への訣別。お得意のモブダンスでのクライマックスもうまい。とにかくディテールが実によく磨き抜かれている。チャップリン・トーキーの最高傑作。

「ザ・キッド」
喋るチャップリンに親しんだ後にサイレントのチャップリン映画を見ても評価はむずかしい。展開が初歩的で幼稚なのだ。敢えてつけるならB+。

「サーカス」
これも「ザ・キッド」と同じ。

「黄金狂時代」A-
こちらは1942年版での評価。チャップリンのナレーションで活気がある。

「ニューヨークの王様」A-
昔、見たときは退屈したが、人生経験をし、赤狩りもチャップリンもそれなりに学んでから見たら、拍手喝采。赤狩りの敵意ある時代を大人の対応で取り込んで爽やか&軽快な作品に仕上げた。ロンドンで撮ったニューヨークなのに違和感はない。キャストも素晴らしい。殊に、ドーン・アダムス、マキシーヌ・オードリー、ウーナとの息子マイケル・チャップリン。



「孤独なふりをした世界で」B+
リード・モラノは監督よりも撮影に才能がある。「フローズン・リヴァー」の撮影も彼女だった。ピーター・ディンクレイジもエル・ファニングもジアマッティもいいが、話が「ウォーリー」の地味な二番煎じでつまらない。終盤はとってつけたような救出劇で興ざめ。

「ザ・リズム・セクション」B
リード・モラノは映像センスがあっても不備な脚本を修正する能力に欠ける。ブレイク・ライヴリーはがんばっているが、導入部の「失意」があまりにマンガチック。自分が生き残って愛する家族が死んだからってなんでヤク中の娼婦なんだよ。とことん落とすならそれなりの手数がないと恥ずかしいのだよ。原作者が書いた脚本がひどい。ショーン・ボビットのカメラはAクラス。

「ハミングバード・プロジェクト」B-
アレキサンダー・スカルスガルドを筆頭に役者はいいが、お話が虚しい。キム・グエンの映像センスは「魔女と呼ばれた少女」で証明されてはいるが、いくら「衝撃の実話」とはいえ、他人のふんどしで相撲をとって負けたらごめんしか言えない男の話など見たくもない。

「スキャンダル」A-
シャリーズがうまい!リスゴーがいい!バリー・アックロイドのカメラが映像センスの怪しいジェイ・ローチ演出を助けて勢いあり。



「幸運の女神」A-
フェルザン・オズペテクの秀作。このFEEL GOODイタリア映画は是非とも劇場公開してもらいたい。主役のゲイ・カップルにイタリアの人気俳優ふたりを配したケミストリーが抜群。子役がとんでもなく素晴らしい。日本のこまっしゃくれた子役とは大違い。

「マンク」A+
長文を書いたので短く。フィンチャー親子の勝利の凱歌!

「ロープ/戦場の生命線」C
どうしたベニシオ!こんなくだらぬ脚本でも出ちゃうのか。作品を選ぼうぜ!

「ジョン・ウィック/パラベラム」C-
前作と違って単なるおバカアクションの大乱交。キアヌの動きが悪い。殴り合いの間がひどい。テンポもタコ。



2020/11/30 (月)

ピッチ&オザーク。


映画「マンク」には脚本家オールスター・チームによるPITCHのセッションが出て来る。ピッチというのは、プロデューサーや監督を前にしての脚本アイデアのセールスだ。

マンクのチームはベン・ヘクト、チャールス・マッカーサー、ジョージ・S・コウフマンがいて新人のチャールス・レデラーが加わる。対するは大物プロデューサーのデーヴィッド・O・セルズニックとマレーネ・ディートリッヒとのデュエットで知られたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。ピッチのブツは「フランケンシュタインの花嫁」っぽい。

これはおそらくデーヴィッド・フィンチャーのファンタジー・セッションだ。セルズニックはこの1934年前後はチャールス・ディケンズ諸作の映画化に熱を入れていて、文芸映画にシフトしている。スタンバーグのタッチとも相容れない。マンクやヘクトが、ジョークのネタ以外にモンスター企画を論ずるとも思えない。実話であったとしても愉しいが、虚構である方がもっと愉しい。

いずれにせよ、私がうらやましく思うのは、こういった才能が集まるハリウッドの「寄せ場」の機能だ。



1930年代から40年代にかけて、特に顕著だったのは、ジャーナリストや著名作家がカネのなる木を求めてLAにやってきたということ。

マンクもヘクトもそうだし、ウィリアム・フォークナーのような文豪もハワード・ホークスに招かれてこういった頭脳移民の群れに加わった。

マンク同様、アルコールに依存して夭折した天才批評家異色脚本家のジェームス・エイジーもそうだ。エイジーはチャップリンを崇拝していて、チャップリン演ずる放浪紳士が地球最後の男として生き残るサイエンス・ファンタジーを書いている。私が好きなピクサー・アニメの一本、「ウォーリー」はこのエイジーの脚本を下敷きにしているように思える。パートナーの登場と巨大悪に立ち向かう流れまで酷似している。

そういえばチャールス・チャップリンもハースト・キャッスルの常連のひとりで、彼の自伝でも、ハーストとの好ましい関係を綴っている。「マンク」にもチャップリン役はキャストされていて、一瞬、それらしき人物が映る。



「マンク」をシネマート新宿で見た直後、NETFLIXオリジナル・シリーズの「オザークへようこそ」をついに見始めた。

ついに、というのは、批評もスコアもいいシリーズなので見たい気持ちはあったが、2017年からスタートした人気シリーズゆえ、もし万が一気に入ったならば、4シーズン分、ぶっ続けに見たくなる怖れがある。

「ザ・クラウン」を長い事、敬遠していたのと同じ理由だ。

もうひとつの理由は、そしてこちらが決定的なのだが、主役がジェイソン・ベイトマンでシーズン1の第一話もベイトマンが監督しているという点だ。

私は、ベイトマンをいい役者だとは思うが、主役として見続ける魅力は感じない。しかも、監督までしているとなったら、二重苦だ。

「マンク」を見て気分が高揚していたせいか、とりあえず、10分程度見てみようという気にはなった。

10分見ると、ベイトマンと妻ウェンディ役のローラ・リニー以下のキャストがすべてナチュラルな演技巧者で、監督としてのベイトマンもなかなかやるではないかと思い、そのまま見続けた。



そして、イサイ・モラレス演ずるメキシカン・マフィアのデルが登場し、天地がひっくり返った。意表を衝く展開に呑み込まれ、オザーク湖に転居せざるを得なくなったマーティ・バーディ一家の運命に魅了された。

この第一話はまぎれもなくA+の極上品だった。

その夜から三晩続けて「オザークへようこそ」の第一シーズン10話分を制覇した。結論から言えば、総合評価はB+程度ということになる。第一話に匹敵する秀逸なエピソードはなかった。近い所までは行くが、「意外性」をめざすだけの下品さが先行してしまっている。

例えて言えば、強固な原作がある「レフトオーヴァーズ」や「リトル・ビッグ・ライズ」の第一シーズンのような「作家性」に欠ける。第一話他数話を担当したビル・デュビュークには、そういった作家性があったのだが、原作小説として完結したものではない。次々とライターが交代してそのたびに製作陣は新たなアイデアに飛びついたような軽薄さが感じられる。それでも、オザークの地で登場する大ワル小ワルのメンツには平均点以上の面白さがある。



最大の問題は、デルとメキシカン・ギャングの怖さが、後半まったく機能しなくなることだ。殊に、マーティを拷問するくだりにはがっかりした。「真実」を聞き出すために、マーティの足指のツメをはがすのだが、口八丁手八丁で危機を切り抜けて来たマーティが何故、痛い目を見るまで「吐かない」のかわからないし、これだけ痛い思いをしたのに、以降、元気に動き回るのはさらに理解不可能だ。デルの凄みを売るために脚本も演出も空回りしている。

5話あたりから10話にかけて、私が唯一興味をもったのは、小ワルのルース(ジュリア・ガーナー)の成長だ。それに比べると、マーティの長女シャーロットの変化はつまらないし、長男ジョナスの成長は通俗的だ。

このシリーズがヒットした理由はよくわかる。「ジ・アメリカン」と同じ異形の家族ドラマだからだ。あちらは、ロシアのスパイがアメリカン・ファミリーを演じ、その綱渡りの中で、新たなアイデンティティを求め、家族が育っていく。こちらは、メキシカン・マフィアのマネー・ロンダリングに関わって財をなしたビジネスマンとその家族が、生き残るための家族活動を続けていく。正邪の境界線が曖昧になった今のアメリカで、最悪の状況下で模索する家族の姿は国民ドラマになりうるのだ。

「ジ・アメリカン」はシーズン1の第一話を見て、なるほど面白い、と思ったが、この家族と10年近く付き合う重みを考え、リタイアした。



「オザークへようこそ」は、もう少し辛抱してみようとは思う。というのも、第二シーズン導入部で、魅力的なキャラが現れたから。

私が今、オリヴィア・コールマンと並んでもっとも惹かれる英国産女優、ジャネット・マクティアだ。

役どころはメキシカン・マフィアの顧問弁護士。

マーティを脅すセリフはデルと同じで、こういうクラシー・ビッチのリアリティはないが、彼女の口から発せられるとそれなりの説得力はある。

IMDBでチェックすると、このキャラは第二シーズンのみならず、第三、第四まで生き残る。ジャネットの役割を見届けるために、オザークの住民との付き合いを続けようと思う。

ちなみに、私の「罪の声」に於けるソフィー役の第一候補はジャネット・マクティアだった。


2020/11/30 (月)

ピッチ&オザーク。


映画「マンク」には脚本家オールスター・チームによるPITCHのセッションが出て来る。ピッチというのは、プロデューサーや監督を前にしての脚本アイデアのセールスだ。

マンクのチームはベン・ヘクト、チャールス・マッカーサー、ジョージ・S・コウフマンがいて新人のチャールス・レデラーが加わる。対するは大物プロデューサーのデーヴィッド・O・セルズニックとマレーネ・ディートリッヒとのデュエットで知られたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。ピッチのブツは「フランケンシュタインの花嫁」っぽい。

これはおそらくデーヴィッド・フィンチャーのファンタジー・セッションだ。セルズニックはこの1934年前後はチャールス・ディケンズ諸作の映画化に熱を入れていて、文芸映画にシフトしている。スタンバーグのタッチとも相容れない。マンクやヘクトが、ジョークのネタ以外にモンスター企画を論ずるとも思えない。実話であったとしても愉しいが、虚構である方がもっと愉しい。

いずれにせよ、私がうらやましく思うのは、こういった才能が集まるハリウッドの「寄せ場」の機能だ。



1930年代から40年代にかけて、特に顕著だったのは、ジャーナリストや著名作家がカネのなる木を求めてLAにやってきたということ。

マンクもヘクトもそうだし、ウィリアム・フォークナーのような文豪もハワード・ホークスに招かれてこういった頭脳移民の群れに加わった。

マンク同様、アルコールに依存して夭折した天才批評家異色脚本家のジェームス・エイジーもそうだ。エイジーはチャップリンを崇拝していて、チャップリン演ずる放浪紳士が地球最後の男として生き残るサイエンス・ファンタジーを書いている。私が好きなピクサー・アニメの一本、「ウォーリー」はこのエイジーの脚本を下敷きにしているように思える。パートナーの登場と巨大悪に立ち向かう流れまで酷似している。

そういえばチャールス・チャップリンもハースト・キャッスルの常連のひとりで、彼の自伝でも、ハーストとの好ましい関係を綴っている。「マンク」にもチャップリン役はキャストされていて、一瞬、それらしき人物が映る。



「マンク」をシネマート新宿で見た直後、NETFLIXオリジナル・シリーズの「オザークへようこそ」をついに見始めた。

ついに、というのは、批評もスコアもいいシリーズなので見たい気持ちはあったが、2017年からスタートした人気シリーズゆえ、もし万が一気に入ったならば、4シーズン分、ぶっ続けに見たくなる怖れがある。

「ザ・クラウン」を長い事、敬遠していたのと同じ理由だ。

もうひとつの理由は、そしてこちらが決定的なのだが、主役がジェイソン・ベイトマンでシーズン1の第一話もベイトマンが監督しているという点だ。

私は、ベイトマンをいい役者だとは思うが、主役として見続ける魅力は感じない。しかも、監督までしているとなったら、二重苦だ。

「マンク」を見て気分が高揚していたせいか、とりあえず、10分程度見てみようという気にはなった。

10分見ると、ベイトマンと妻ウェンディ役のローラ・リニー以下のキャストがすべてナチュラルな演技巧者で、監督としてのベイトマンもなかなかやるではないかと思い、そのまま見続けた。



そして、イサイ・モラレス演ずるメキシカン・マフィアのデルが登場し、天地がひっくり返った。意表を衝く展開に呑み込まれ、オザーク湖に転居せざるを得なくなったマーティ・バーディ一家の運命に魅了された。

この第一話はまぎれもなくA+の極上品だった。

その夜から三晩続けて「オザークへようこそ」の第一シーズン10話分を制覇した。結論から言えば、総合評価はB+程度ということになる。第一話に匹敵する秀逸なエピソードはなかった。近い所までは行くが、「意外性」をめざすだけの下品さが先行してしまっている。

例えて言えば、強固な原作がある「レフトオーヴァーズ」や「リトル・ビッグ・ライズ」の第一シーズンのような「作家性」に欠ける。第一話他数話を担当したビル・デュビュークには、そういった作家性があったのだが、原作小説として完結したものではない。次々とライターが交代してそのたびに製作陣は新たなアイデアに飛びついたような軽薄さが感じられる。それでも、オザークの地で登場する大ワル小ワルのメンツには平均点以上の面白さがある。



最大の問題は、デルとメキシカン・ギャングの怖さが、後半まったく機能しなくなることだ。殊に、マーティを拷問するくだりにはがっかりした。「真実」を聞き出すために、マーティの足指のツメをはがすのだが、口八丁手八丁で危機を切り抜けて来たマーティが何故、痛い目を見るまで「吐かない」のかわからないし、これだけ痛い思いをしたのに、以降、元気に動き回るのはさらに理解不可能だ。デルの凄みを売るために脚本も演出も空回りしている。

5話あたりから10話にかけて、私が唯一興味をもったのは、小ワルのルース(ジュリア・ガーナー)の成長だ。それに比べると、マーティの長女シャーロットの変化はつまらないし、長男ジョナスの成長は通俗的だ。

このシリーズがヒットした理由はよくわかる。「ジ・アメリカン」と同じ異形の家族ドラマだからだ。あちらは、ロシアのスパイがアメリカン・ファミリーを演じ、その綱渡りの中で、新たなアイデンティティを求め、家族が育っていく。こちらは、メキシカン・マフィアのマネー・ロンダリングに関わって財をなしたビジネスマンとその家族が、生き残るための家族活動を続けていく。正邪の境界線が曖昧になった今のアメリカで、最悪の状況下で模索する家族の姿は国民ドラマになりうるのだ。

「ジ・アメリカン」はシーズン1の第一話を見て、なるほど面白い、と思ったが、この家族と10年近く付き合う重みを考え、リタイアした。



「オザークへようこそ」は、もう少し辛抱してみようとは思う。というのも、第二シーズン導入部で、魅力的なキャラが現れたから。

私が今、オリヴィア・コールマンと並んでもっとも惹かれる英国産女優、ジャネット・マクティアだ。

役どころはメキシカン・マフィアの顧問弁護士。

マーティを脅すセリフはデルと同じで、こういうクラシー・ビッチのリアリティはないが、彼女の口から発せられるとそれなりの説得力はある。

IMDBでチェックすると、このキャラは第二シーズンのみならず、第三、第四まで生き残る。ジャネットの役割を見届けるために、オザークの住民との付き合いを続けようと思う。

ちなみに、私の「罪の声」に於けるソフィー役の第一候補はジャネット・マクティアだった。


2020/11/29 (日)

HOLLYWOOD HAGIOGRAPHYまたは、偉大なるマンク。


デーヴィッド・フィンチャーが監督した「マンク」には極上の映画愛が波打っている。その波は表情豊かで、あるときは隅田川のさざ波になり、時にはノース・ショアのビッグ・ウェイヴとなるーー。

来年のアカデミー賞ではNETFLIXの2本の映画「シカゴ7裁判」と「マンク」が主要カテゴリーで争うことになるだろう。

エモーションを第一に考えれば前者が、研ぎ澄まされた映画芸術とハリウッド聖人伝説(ハギオグラフィ)に尺度をおけば後者が作品賞に輝く。

演技のアンサンブルでは「シカゴ7」。

主演男優カテゴリーの筆頭はマンクを演じたゲイリー・オールドマン。主演男優賞受賞のチャーチル役よりも素晴らしい。

アマンダ・サイフレッド(セイフライドに非ず)は主演女優でエントリーするか助演女優になるか不明だが、どちらかを受賞するに違いない。ハーストの愛人だったコメディエンヌ、マリオン・ディヴィスを卓越したインディペンデント・ウーマンとして演じ切っている。

私にとっては、どちらの作品も2020年度のベスト1だが、敢えて一本を選ぶのなら、本日の判断では「マンク」ということになる。「シカゴ7裁判」のように感情を揺さぶられることはなかったが、父から子に託された執念の映画化という理念が清く正しく美しい。



主人公はアル中の脚本家ハーマン・マンキウィッツ。通称マンク。1940年2月、43才のマンクは24才の強面天才児オーソン・ウェルズに雇われて、脚本執筆のために、荒涼の地ヴィクターヴィルのノース・ヴェルデ・ランチに籠った。

脚本の仮題はシンプルにAMERICAN。

新聞王でありハリウッドの支配律ともいえるウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした「市民ケーン」の物語だ。

ヴィクターヴィルのゲスト・ランチが選ばれたのはハリウッドとハーストの影響力及びアルコールからマンクを遠ざけるためだった。

ヴィクターヴィルはMGMなどの撮影所からは100マイル弱内陸に入る。当時の車両なら約2時間のドライヴだ。ハリウッド・セレブが集うハースト・キャッスルのあるサン・シメオンはハリウッドの北西220マイルの太平洋岸にある。対極の景観だ。オーソン・ウェルズらしいダイナミックな毒が漂う「場面転換」でもある。



執筆直前に交通事故にあって足を骨折したマンクには、この「カンヅメ」は砂漠の収容所生活だった。一応、チームはいる。口述筆記をタイプする秘書のリタ・アレキサンダー(リリー・コリンズ)、家政婦兼料理人フリーダ(モニカ・ゴスマン)、そしてブロードウェイの演劇シーンでウェルズのパートナーだったジョン・ハウスマン(サム・トロートン)。

ウェルズを演ずるのはトム・バーク。ディープ・ヴォイスは本人そっくり。顔つきも似ている。

ちなみに、チャーチルの秘書を演じたのはリリー・ジェームス。2人のリリーは英国出身の美人女優で、私は、よくこのふたりを混同してしまう。役としては、チャーチルのリリーより、マンクのリリーの方が演技的見せ場に恵まれている。

映画の主軸は、マンクの1940年の執筆時の葛藤。そこにフラッシュバックで挿入されるのは、1/マンクとハリウッド、2/マンクとウィリアム・ハースト、3/マンクとマリオン・ディヴィス、4/マンクとカリフォルニア州知事選といった1930年代の闘いと同胞愛のラウンドだ。



1を彩るハリウッド映画人たちの見事なアンサンブルに私は圧倒された。そっくり度で選ばれたキャストもいれば、知性のオーラ、演技力で選ばれたものもいる。その代表として助演男優賞にノミネートされるのはルイ(ルイスに非ず)・B・メイヤーを演じたアーリス・ハワードだろう。「フルメタル・ジャケット」のカウボーイが老けてこんなに味のある役者になったと、私は驚いた。

ベン・キングスレーの息子ファーディナンドが演ずるアーヴィング・サルバーグ(タルバーグに非ず)も、今までスクリーンに登場したどのサルバーグよりもいい。

マンクの弟で後に「イヴの総て」を監督したジョゼフ・マンキウィッツ(トム・ペルフリー)、ヒッチコックをアメリカに招いた名プロデューサー、デーヴィッド・O・セルズニック(トビー・レオナード・ムーア)、マンクの妻サラ(タッペンス・ミドルトン)、前記のリリー・コリンズ、サム・トロートン、トム・バーク・・・。

皆、適材適所で、その殆どが、私が知らなかった俳優たちだ。

愉快壮快だったのは、私がこよなく愛するハリウッドのA級脚本家たちの配役だ。ベン・ヘクト(ジェフ・ハームス)、ジョージ・S・コウフマン(アダム・シャピロ)、チャールス・マッカーサー(ジョン・チャーチル)、そしてチャールス・レデラー(ジョセフ・クロス)。

ヘクト、マッカーサー、レデラーとハワード・ホークスの接点は深い。殊に、レデラーは「ヒズ・ガール・フライデー」、「僕は戦争花嫁」、「モンキー・ビジネス」に関わったコアなホークス・メンバーだ。

このすべての演技陣と絡むオールドマン/マンクの演技は絶品だ。どの役者とのケミストリーもイイ。



2のチャールス・ダンス演ずるハーストの圧倒的風格、3のアマンダとの友情が映画の核になる。そのどちらの登場シーンも、凝りに凝った味付けで、マンクとの初対面の会話も粋で闊達。苦い風味の退場シーンも、ともに名場面となっている。

4は、マンクが何故、ドン・キホーテとなって巨大なハーストに立ち向かったのか、なぜマリオンを裏切ったのか、そのスペクテキュラーな心象風景となっている。

「ジャングル」を書いた社会主義者アプトン・シンクレアのカリフォルニア州知事選の戦いには、腐り切ったドナルド・トランプとその共和党ギャングの醜態を予測した感もある。



「市民ケーン」の不思議のひとつは、ケーンがハーストであることは歴然としているのに、ケーンの愛人スーザンが、ハーストの愛人マリオンとは似ても似つかぬ才能ゼロの愚かな女だったことだ。

それは、マンクの、マリオンへの愛情であったことが、「マンク」を見ているとよくわかる。マリオンはマンクのWANTING WOMANで、妻のサラがHAVING WOMANだったということだ。

ひとつわからないのは「バラのつぼみROSEBUD」の秘密を誰が嗅ぎ付け脚本に入れたか、だ。

映画では、一言さらりと、語られるだけで、ウェルズのアイデアか、マンクのアイデアかはわからない。

私は、長い間、ハーストのインナー・サークルのひとりであったマンクがそのことを聞きつけ脚本のキーワードとして挿入したと思っていたが、どうも違うようだ。ウェルズが別ルートから聞き込んで、悪ふざけ半分で、使用したのだろう。

ハーストがマリオンのプシーを評して言った一言を、映画「市民ケーン」のシンボリックな一言として使う無神経さを、ゲイリー・オールドマン演ずるマンクは持ち合わせていない。彼はセンシティヴなアルコール依存症の正義漢で、周囲の女性にはとてつもなく優しかった。



脚本を書いたジャック・フィンチャーはデーヴィッドの父親で2003年に没した。「マンク」の脚本を書いたのは1993年。誰の依頼で書いたのかは、私が読んだ記事には出て来なかった。脚本は映画化困難の烙印を押され、ボツとなった。

1998年には「SE7EN(セブン)」のヒットでAクラス監督となったデーヴィッドが映画化に向け動き始めた。そのときの構想では、マンク役を「セブン」でサイコパスを見事に演じたケヴィン・スペイシー、マリオンはジョディ・フォスターだった。しかし、「市民ケーン」と同様のモノクロでの映画化がデーヴィッドにとっての最優先事項だったために製作費が集まらず頓挫した。

NETFLIXでの映画化は、同様にモノクロにこだわったアルフォンゾ・キュアロンの「ROMA」の成功が寄与している。



「市民ケーン」の真のAUTHORは誰なのか、オーソンか、マンクか、といった不毛の議論は現在に至るまで世界のシネアストの間で続いている。

ポーリーン・ケイルのCITIZEN KANE BOOK、及びRAISING KANEの翻訳本「スキャンダルの祝祭」などはその代表例だ。私は2冊とも購入した記憶はあるが、読了した記憶がない。2冊はグレンデールの倉庫に残して来たらしく、東京の我が家では見つからない。この映画はマンクの葛藤を中心に描いているが、その議論への決定的な回答を謳い上げているわけではない。

60日間で書き上げた脚本は300ページ以上あった。「市民ケーン」の上映時間は119分。脚本ページに換算すれば120ページ前後だ。マンクが書いたのは二稿まで。第三稿はオーソン。監督として改稿した彼が共同脚本家としてクレジットされていることに問題はない。

マンクの体験と葛藤がなければ「市民ケーン」のコアな部分は生まれなかったし、オーソンのヴィジョンがなければ、現在まで続く評価を勝ち取ることはなかった。

そのヴィジョンにしても、映画とは共同作業の賜物であってグレッグ・トーランドという天才撮影監督ぬきに、「市民ケーン」の芸術性を語ることはできない。マンクやトーランドのベスト・ワークの上に、オーソン・ウェルズのエゴがどっかり腰をおろしているとみればいい。

しかし、映画「マンク」はフィンチャー親子の映画だ。グレッグ・トーランドの偉大なる光と影の芸術を受け継いだのはエリック・メッサーシュミット。デーヴィッド・フィンチャーが製作と、数話監督したリミテッド・シリーズ「マインド・ハンター」で名をなしたカメラマンだ。彼は間違いなくオスカーを取るだろう。

「マインド・ハンター」といえば、私はまっさきにドクター・ウェンディ・カーのアンナ・トーヴを思い浮かべる。サラを演じたタッペンス・ミドルトンはとてもいい女優だが、私は、アンナ・トーヴが演ずるサラを見たかった。なぜ、フィンチャーはアンナを抜擢しなかったのだろう?


2020/11/29 (日)

HOLLYWOOD HAGIOGRAPHYまたは、偉大なるマンク。


デーヴィッド・フィンチャーが監督した「マンク」には極上の映画愛が波打っている。その波は表情豊かで、あるときは隅田川のさざ波になり、時にはノース・ショアのビッグ・ウェイヴとなるーー。

来年のアカデミー賞ではNETFLIXの2本の映画「シカゴ7裁判」と「マンク」が主要カテゴリーで争うことになるだろう。

エモーションを第一に考えれば前者が、研ぎ澄まされた映画芸術とハリウッド聖人伝説(ハギオグラフィ)に尺度をおけば後者が作品賞に輝く。

演技のアンサンブルでは「シカゴ7」。

主演男優カテゴリーの筆頭はマンクを演じたゲイリー・オールドマン。主演男優賞受賞のチャーチル役よりも素晴らしい。

アマンダ・サイフレッド(セイフライドに非ず)は主演女優でエントリーするか助演女優になるか不明だが、どちらかを受賞するに違いない。ハーストの愛人だったコメディエンヌ、マリオン・ディヴィスを卓越したインディペンデント・ウーマンとして演じ切っている。

私にとっては、どちらの作品も2020年度のベスト1だが、敢えて一本を選ぶのなら、本日の判断では「マンク」ということになる。「シカゴ7裁判」のように感情を揺さぶられることはなかったが、父から子に託された執念の映画化という理念が清く正しく美しい。



主人公はアル中の脚本家ハーマン・マンキウィッツ。通称マンク。1940年2月、43才のマンクは24才の強面天才児オーソン・ウェルズに雇われて、脚本執筆のために、荒涼の地ヴィクターヴィルのノース・ヴェルデ・ランチに籠った。

脚本の仮題はシンプルにAMERICAN。

新聞王でありハリウッドの支配律ともいえるウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした「市民ケーン」の物語だ。

ヴィクターヴィルのゲスト・ランチが選ばれたのはハリウッドとハーストの影響力及びアルコールからマンクを遠ざけるためだった。

ヴィクターヴィルはMGMなどの撮影所からは100マイル弱内陸に入る。当時の車両なら約2時間のドライヴだ。ハリウッド・セレブが集うハースト・キャッスルのあるサン・シメオンはハリウッドの北西220マイルの太平洋岸にある。対極の景観だ。オーソン・ウェルズらしいダイナミックな毒が漂う「場面転換」でもある。



執筆直前に交通事故にあって足を骨折したマンクには、この「カンヅメ」は砂漠の収容所生活だった。一応、チームはいる。口述筆記をタイプする秘書のリタ・アレキサンダー(リリー・コリンズ)、家政婦兼料理人フリーダ(モニカ・ゴスマン)、そしてブロードウェイの演劇シーンでウェルズのパートナーだったジョン・ハウスマン(サム・トロートン)。

ウェルズを演ずるのはトム・バーク。ディープ・ヴォイスは本人そっくり。顔つきも似ている。

ちなみに、チャーチルの秘書を演じたのはリリー・ジェームス。2人のリリーは英国出身の美人女優で、私は、よくこのふたりを混同してしまう。役としては、チャーチルのリリーより、マンクのリリーの方が演技的見せ場に恵まれている。

映画の主軸は、マンクの1940年の執筆時の葛藤。そこにフラッシュバックで挿入されるのは、1/マンクとハリウッド、2/マンクとウィリアム・ハースト、3/マンクとマリオン・ディヴィス、4/マンクとカリフォルニア州知事選といった1930年代の闘いと同胞愛のラウンドだ。



1を彩るハリウッド映画人たちの見事なアンサンブルに私は圧倒された。そっくり度で選ばれたキャストもいれば、知性のオーラ、演技力で選ばれたものもいる。その代表として助演男優賞にノミネートされるのはルイ(ルイスに非ず)・B・メイヤーを演じたアーリス・ハワードだろう。「フルメタル・ジャケット」のカウボーイが老けてこんなに味のある役者になったと、私は驚いた。

ベン・キングスレーの息子ファーディナンドが演ずるアーヴィング・サルバーグ(タルバーグに非ず)も、今までスクリーンに登場したどのサルバーグよりもいい。

マンクの弟で後に「イヴの総て」を監督したジョゼフ・マンキウィッツ(トム・ペルフリー)、ヒッチコックをアメリカに招いた名プロデューサー、デーヴィッド・O・セルズニック(トビー・レオナード・ムーア)、マンクの妻サラ(タッペンス・ミドルトン)、前記のリリー・コリンズ、サム・トロートン、トム・バーク・・・。

皆、適材適所で、その殆どが、私が知らなかった俳優たちだ。

愉快壮快だったのは、私がこよなく愛するハリウッドのA級脚本家たちの配役だ。ベン・ヘクト(ジェフ・ハームス)、ジョージ・S・コウフマン(アダム・シャピロ)、チャールス・マッカーサー(ジョン・チャーチル)、そしてチャールス・レデラー(ジョセフ・クロス)。

ヘクト、マッカーサー、レデラーとハワード・ホークスの接点は深い。殊に、レデラーは「ヒズ・ガール・フライデー」、「僕は戦争花嫁」、「モンキー・ビジネス」に関わったコアなホークス・メンバーだ。

このすべての演技陣と絡むオールドマン/マンクの演技は絶品だ。どの役者とのケミストリーもイイ。



2のチャールス・ダンス演ずるハーストの圧倒的風格、3のアマンダとの友情が映画の核になる。そのどちらの登場シーンも、凝りに凝った味付けで、マンクとの初対面の会話も粋で闊達。苦い風味の退場シーンも、ともに名場面となっている。

4は、マンクが何故、ドン・キホーテとなって巨大なハーストに立ち向かったのか、なぜマリオンを裏切ったのか、そのスペクテキュラーな心象風景となっている。

「ジャングル」を書いた社会主義者アプトン・シンクレアのカリフォルニア州知事選の戦いには、腐り切ったドナルド・トランプとその共和党ギャングの醜態を予測した感もある。



「市民ケーン」の不思議のひとつは、ケーンがハーストであることは歴然としているのに、ケーンの愛人スーザンが、ハーストの愛人マリオンとは似ても似つかぬ才能ゼロの愚かな女だったことだ。

それは、マンクの、マリオンへの愛情であったことが、「マンク」を見ているとよくわかる。マリオンはマンクのWANTING WOMANで、妻のサラがHAVING WOMANだったということだ。

ひとつわからないのは「バラのつぼみROSEBUD」の秘密を誰が嗅ぎ付け脚本に入れたか、だ。

映画では、一言さらりと、語られるだけで、ウェルズのアイデアか、マンクのアイデアかはわからない。

私は、長い間、ハーストのインナー・サークルのひとりであったマンクがそのことを聞きつけ脚本のキーワードとして挿入したと思っていたが、どうも違うようだ。ウェルズが別ルートから聞き込んで、悪ふざけ半分で、使用したのだろう。

ハーストがマリオンのプシーを評して言った一言を、映画「市民ケーン」のシンボリックな一言として使う無神経さを、ゲイリー・オールドマン演ずるマンクは持ち合わせていない。彼はセンシティヴなアルコール依存症の正義漢で、周囲の女性にはとてつもなく優しかった。



脚本を書いたジャック・フィンチャーはデーヴィッドの父親で2003年に没した。「マンク」の脚本を書いたのは1993年。誰の依頼で書いたのかは、私が読んだ記事には出て来なかった。脚本は映画化困難の烙印を押され、ボツとなった。

1998年には「SE7EN(セブン)」のヒットでAクラス監督となったデーヴィッドが映画化に向け動き始めた。そのときの構想では、マンク役を「セブン」でサイコパスを見事に演じたケヴィン・スペイシー、マリオンはジョディ・フォスターだった。しかし、「市民ケーン」と同様のモノクロでの映画化がデーヴィッドにとっての最優先事項だったために製作費が集まらず頓挫した。

NETFLIXでの映画化は、同様にモノクロにこだわったアルフォンゾ・キュアロンの「ROMA」の成功が寄与している。



「市民ケーン」の真のAUTHORは誰なのか、オーソンか、マンクか、といった不毛の議論は現在に至るまで世界のシネアストの間で続いている。

ポーリーン・ケイルのCITIZEN KANE BOOK、及びRAISING KANEの翻訳本「スキャンダルの祝祭」などはその代表例だ。私は2冊とも購入した記憶はあるが、読了した記憶がない。2冊はグレンデールの倉庫に残して来たらしく、東京の我が家では見つからない。この映画はマンクの葛藤を中心に描いているが、その議論への決定的な回答を謳い上げているわけではない。

60日間で書き上げた脚本は300ページ以上あった。「市民ケーン」の上映時間は119分。脚本ページに換算すれば120ページ前後だ。マンクが書いたのは二稿まで。第三稿はオーソン。監督として改稿した彼が共同脚本家としてクレジットされていることに問題はない。

マンクの体験と葛藤がなければ「市民ケーン」のコアな部分は生まれなかったし、オーソンのヴィジョンがなければ、現在まで続く評価を勝ち取ることはなかった。

そのヴィジョンにしても、映画とは共同作業の賜物であってグレッグ・トーランドという天才撮影監督ぬきに、「市民ケーン」の芸術性を語ることはできない。マンクやトーランドのベスト・ワークの上に、オーソン・ウェルズのエゴがどっかり腰をおろしているとみればいい。

しかし、映画「マンク」はフィンチャー親子の映画だ。グレッグ・トーランドの偉大なる光と影の芸術を受け継いだのはエリック・メッサーシュミット。デーヴィッド・フィンチャーが製作と、数話監督したリミテッド・シリーズ「マインド・ハンター」で名をなしたカメラマンだ。彼は間違いなくオスカーを取るだろう。

「マインド・ハンター」といえば、私はまっさきにドクター・ウェンディ・カーのアンナ・トーヴを思い浮かべる。サラを演じたタッペンス・ミドルトンはとてもいい女優だが、私は、アンナ・トーヴが演ずるサラを見たかった。なぜ、フィンチャーはアンナを抜擢しなかったのだろう?


 a-Nikki 1.02