2024/11/01 (金)

11月4日沼津で映画祭ハシゴ。


沼津文化センターのしずおか映画祭で「わが母の記」上映後のトーク・セッションの後、沼津駅前に移動して15時頃からめぐる沼津映画祭のラクーン・ホールにて拙著「ACT!」メインのトーク。会場では本を販売し、サイン会も開催。

沼津でも「映画祭」を掲げるイヴェントが開けるようになった。感無量。

前者は俳優磯村勇斗君の熱意のタマモノ。後者は駿河湾沼津FCハリプロなどの主催。沼津は映画の街に進化するのか。

私の次回作は御殿場・沼津・三島&駿河湾で大々的なロケを行うプロジェクトFになるかもしれない。


ドジャースはワールド・シリーズ3戦連勝の伝統を守ってGAME 5で決めちゃいましたね。私としては、G5はヤンキースに花持たせてあげて、G6で先発ヤマモト全開オータニの活躍で決着つけて欲しかったけど、ま、3連勝の後の2連敗というのは前人未踏の危険水域であったわけで、2連敗が3連敗になり4連敗になったかもしれない。勝てる時に勝っておいてよかった。

でも、あの展開でよく勝てたと思う。

ヤンキース5回表守備の2エラー&1メンタル・エラーなんてシナリオは誰も想像できなかった。ドジャース上級ブルペンの四死球連発も前代未聞だった。頂上決戦の緊張度がそれだけ大きかったということか。

ウォーカー・ビューラーのクローザーぶりは1988年ワールド・シリーズMVPに輝いたオーレル・ハーシャイザーのヒロイックスを思い出して胸が熱くなった。クレイトン・カーショーが出場できなかったのが、オータニの亜脱臼と並んで残念リストのトップ。


2024/10/26 (土)

WORLD SERIES 1981-2024


やっと勇気づけられる書き込みがあった。瑞希さん、ありがとう。スケール大きな人間ドラマを2025年には撮りますからね。少々お待ちを。

さて43年ぶりのドジャース対ヤンキースのワールド・シリーズ。始まりましたね。感慨深いものがあります。何しろ私がドジャー・ファンになったきっかけは1981年の「フェルナンドメニア」でしたから。

1973年からLAに住み始めて、近所にドジャー・スタジアムがあることは知っていました。トム・ラソーダが監督であることも知っていました。でもMLBファンではなかった。

19歳のフェルナンド・ヴァレンズエラがLAタイムスのフロント・ページで取り上げられるようになって「フェルナンドメニア」なる言葉が生まれた。

ポストシーズンが始まってフェルナンドのいるドジャースがどんなものかちょっとだけ見てやろうと思って見始めたゲームが、モントリオール・エキスポス相手のリーグ優勝決定戦。

そのTV画面に、なんと、私が小学生の頃からひたすら憧れたハリウッド・スター、リチャード・ウィドマークが写っているじゃありませんか。

当時、ウィドマークの一人娘アンは、ドジャースのレジェンド、名投手サンディ・コーファックスのヨメだったわけです。ウィドマークが熱狂的なドジャー・ファンだと知って、私はますますドジャースに興味持つようになりました。


ところがワールド・シリーズが始まってもTVにかじり付いてゲームを見たわけじゃない。多分、映画三昧の生活でしたからそっちがメインで忘れていたのかもしれません。とにかく敵地でのゲーム1と2は見ていない。これ、ドジャースは連敗してるんです。

で、ドジャー・スタジアムに戻ってからのゲームは見ました。ドジャースは2連敗の後4連勝して世界一となりました。つまり、私はポスト・シーズンでのドジャースの勝ちゲームしか見てなかったわけです。

このシリーズのMVPは超ファイン・プレーを見せた三塁手ロン・セイ(ニックネームはペンギン)、2本のホームランを打ったキャッチャーのスティーヴ・イェーガー、やはり2ホーマーで活躍した外野手ペドロ・ゲレーロの三人でした。私は、このシリーズでスターになったゲレーロのファンとなり、以後ドジャー・ゲームを見続け今に至るわけです。


43年ぶりのドジャース対ヤンキースのワールド・シリーズが始まる直前に、63歳になったヴァレンズエラが亡くなったのはショックでした。それ以上に衝撃的だったのは始球式にオーレル・ハーシャイザーと共にマウンドに上がったスティーヴ・イェーガーの姿です。

老いて萎んでいる!

オーレルは投手時代の体型だったから余計イェーガーの老残無惨ぶりが目立ったのかもしれません。1948年生まれだから私より一歳歳上。同世代です。私も人から見れば老残無惨一歩手前かもしれないと自覚いたしました。


ゲーム1はスリリングでした。先制の斬り込み隊長となったキケの一打に拍手し、フレアティの失投を見逃さなかったスタントンの怖さを思い知り、逆転のチャンスに内角高めの初球をポップフライにしたウィル・スミスを罵倒し、8回裏のオータニのヒロイックに喝采し、フリーマンの、カーク・ギブソンの伝説をホーフツさせる逆転サヨナラ・ホーマーにエクスタシーを感じた一幕でした。

私の第一希望としては1981年と同じ4勝2敗でドジャースが世界一となること。第二希望は4勝1敗でドジャース。

オータニは明日以降全試合でホームランを打ち盗塁も決めどこかでクローザーもやってくれないかな。


2024/10/26 (土)

WORLD SERIES 1981-2024


やっと勇気づけられる書き込みがあった。瑞希さん、ありがとう。スケール大きな人間ドラマを2025年には撮りますからね。少々お待ちを。

さて43年ぶりのドジャース対ヤンキースのワールド・シリーズ。始まりましたね。感慨深いものがあります。何しろ私がドジャー・ファンになったきっかけは1981年の「フェルナンドメニア」でしたから。

1973年からLAに住み始めて、近所にドジャー・スタジアムがあることは知っていました。トム・ラソーダが監督であることも知っていました。でもMLBファンではなかった。

19歳のフェルナンド・ヴァレンズエラがLAタイムスのフロント・ページで取り上げられるようになって「フェルナンドメニア」なる言葉が生まれた。

ポストシーズンが始まってフェルナンドのいるドジャースがどんなものかちょっとだけ見てやろうと思って見始めたゲームが、モントリオール・エキスポス相手のリーグ優勝決定戦。

そのTV画面に、なんと、私が小学生の頃からひたすら憧れたハリウッド・スター、リチャード・ウィドマークが写っているじゃありませんか。

当時、ウィドマークの一人娘アンは、ドジャースのレジェンド、名投手サンディ・コーファックスのヨメだったわけです。ウィドマークが熱狂的なドジャー・ファンだと知って、私はますますドジャースに興味持つようになりました。


ところがワールド・シリーズが始まってもTVにかじり付いてゲームを見たわけじゃない。多分、映画三昧の生活でしたからそっちがメインで忘れていたのかもしれません。とにかく敵地でのゲーム1と2は見ていない。これ、ドジャースは連敗してるんです。

で、ドジャー・スタジアムに戻ってからのゲームは見ました。ドジャースは2連敗の後4連勝して世界一となりました。つまり、私はポスト・シーズンでのドジャースの勝ちゲームしか見てなかったわけです。

このシリーズのMVPは超ファイン・プレーを見せた三塁手ロン・セイ(ニックネームはペンギン)、2本のホームランを打ったキャッチャーのスティーヴ・イェーガー、やはり2ホーマーで活躍した外野手ペドロ・ゲレーロの三人でした。私は、このシリーズでスターになったゲレーロのファンとなり、以後ドジャー・ゲームを見続け今に至るわけです。


43年ぶりのドジャース対ヤンキースのワールド・シリーズが始まる直前に、63歳になったヴァレンズエラが亡くなったのはショックでした。それ以上に衝撃的だったのは始球式にオーレル・ハーシャイザーと共にマウンドに上がったスティーヴ・イェーガーの姿です。

老いて萎んでいる!

オーレルは投手時代の体型だったから余計イェーガーの老残無惨ぶりが目立ったのかもしれません。1948年生まれだから私より一歳歳上。同世代です。私も人から見れば老残無惨一歩手前かもしれないと自覚いたしました。


ゲーム1はスリリングでした。先制の斬り込み隊長となったキケの一打に拍手し、フレアティの失投を見逃さなかったスタントンの怖さを思い知り、逆転のチャンスに内角高めの初球をポップフライにしたウィル・スミスを罵倒し、8回裏のオータニのヒロイックに喝采し、フリーマンの、カーク・ギブソンの伝説をホーフツさせる逆転サヨナラ・ホーマーにエクスタシーを感じた一幕でした。

私の第一希望としては1981年と同じ4勝2敗でドジャースが世界一となること。第二希望は4勝1敗でドジャース。

オータニは明日以降全試合でホームランを打ち盗塁も決めどこかでクローザーもやってくれないかな。


 a-Nikki 1.02