2019/11/13 (水)

1953年の「恐怖の報酬」に思いを込める。その1。


ラグビー・ワールドカップの決勝の日、アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの「恐怖の報酬」が届いた。クライテリオン版だから特典映像も豊富にある。現在とは映画祭の形式が異なるからあまり参考にはならないが、このアクション・スリラーの名作は、1953年度のベルリン映画祭とカンヌ映画祭で最高賞を受賞している。

ラグビーの実況は、イングランド応援で見始めたが、後半なかばで入力切換をして「恐怖の報酬」を見ることにした。

授賞式でのイングランドの醜態は後で聞いた。エディ・ジョーンズHCへの私の評価は一気に地に堕ちた。イトジェ以下数人の選手の幼児性愚行は、brutalityを強調して来たヘッド・コーチの責任でもある。イングランドは決勝の大舞台で二度負けたといっていい。正真正銘のブラッド・スポーツゆえ、ラグビーのノーサイドの精神は何よりも尊ぶべきなのに。

クルーゾーの「恐怖の報酬」は1955年にアメリカで公開されたが、当時は厳しい検閲があった。火災を起こす「南米のどこか」の油田はアメリカの会社が経営し「傲慢なアメリカ人」が君臨する。オイル・タウンLAS PIEDRASに集うのは、原住民ばかりでなく様々な国籍の胡散臭い男たち。反米的なシーンや不道徳なセリフが全篇に散りばめられ、それらはことごとくカットされた結果、「恐怖の報酬」は100分弱の小品に成り下がった。オリジナル完全版は147分のエピックだというのに。



通しで見るのは何十年ぶりだろう。初見は多分、十代。TVの日曜洋画劇場だったように思う。ということは吹替えだ。その後、一度か二度見ている筈だがいつどこでとなると思い出せない。記憶にあるのは、わくわくする面白さ+イヴ・モンタンの魅力、ということぐらい。

ウィリアム・フリードキンの「恐怖の報酬」(以下原題の「SORCERER」と記す)を見た1977年に、改めてヴィデオで見たような気もするが、その頃、私はLAに住んでいた。アメリカで、オリジナルの「恐怖の報酬」を見ることができたのは1991年だというから、ヴィデオで見たとすれば50分近くカットされた短縮版ということになる。

ひょっとすると、147分の「恐怖の報酬」を見るのはこれが初体験かもしれない。うむ。きっとそうだ。

アンリ・ジョルジュ・クルーゾーはフランス映画史でもっとも「怖い監督」だったと言われている。私も時々「怖い監督」と呼ばれているが、怖さのレヴェルが違う。私の場合は理由なき激怒はないし、沸騰しても5分程度で冷める。

クルーゾーは癇癪持ちの暴君だ。

スタッフ、キャストはクルーゾーのもとで働くことが恐怖の報酬となる。それはウィリアム・フリードキンも同じ。(フリードキンの若い頃を気取るニコラス・ウィンディング・レフンも、癇癪持ちの暴君三代目襲名を目指しているのだろう。これ、皮肉だから。わかっていると思うけど。)

ただし、クライテリオン版「恐怖の報酬」に収録されている助監督ミシェル・ロマノフの証言によれば、クルーゾーは「助監督の直訴」を聞く姿勢はあったようだ。フリードキンは「助監督の直訴」を聞くタイプではない。



ここでひとつ寄り道。「ロマノフ」が気になって調べてみた。すると、なんとなんとのロマノフ家の末裔だった!

ミシェル・ロマノフはロマノフ朝14代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世のgreat-nephewである。つまりニコライ二世の息子の甥。ゆえに晩年はプリンス・ミシェル・ロマノフと呼ばれていた。

そういう人物が助監督として巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエに就いていると聞き、クルーゾーは「恐怖の報酬」のチーフ助監督に招いたのである。実績よりも血筋を重んじてのことだろう。

残された肖像写真を見ると、クルーゾーは愛用のパイプをくわえ、計算したポーズをとっている。まさにフレンチ・インテリといった高い鼻梁と鋭い目。同じようにパイプがトレードマークだった「ぼくの叔父さん」監督ジャック・タチと比べると、身長も低いしユーモアのかけらもない。

ちなみに二人は同じ1907年生まれ。タチの父親がロシア人だったことを考えると、そこにもクルーゾーがロマノフ家の末裔を支配下に置く動機があったのではないか。私の想像では、クルーゾーとタチは相容れない仲、というか、「独裁者」のヒトラーとムッソリーニの関係であったような気がする。こういう稚気あふれる優越感争いが、ライヴァル関係の名監督には多々ある。どこの国でも同じだが、フランスでは殊に顕著だ。

いずれにせよ、「恐怖の報酬」製作当時、ミシェルは27才。彼の直訴の内容は、映画を見てみると、なるほど、と納得することになる。

以下その2に続く。


2019/10/19 (土)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その2。


ようやくニトロ運搬トラックが出発という時点で、あれれ、となる。一台目の車両にシャイダーとラバル。15分後出発する二台目にクレメールとアミドゥ。言葉を削ぎ落とす方向で動くフリードキンは格好の見せ場をスルーして、つまらない交代劇で時間をつぶし出発させてしまう。道中の情報集めも戦略もなし。先頭車両争いもなし。おかしくないか?

基本はジャングルの悪路を超えて行く設定なのだ。先頭車両がミスって爆発したら道路に穴が開く。二台目は圧倒的に不利だ。殊に爆破の専門家アミドゥがそこにこだわらず二番手を甘受するのはおかしい。言葉と知恵を駆使して先頭争いをするのが常識。底辺を生きる男のサヴァイヴァル倫理をかけて。そういうシーンからキャラクターは立ち上がる。フリードキンはそこに気付かない。



最大の見せ場「吊り橋綱渡り」は川を変え、国を変え、プラン変更を余儀なくされたシークェンスだ。このシーンを撮るためだけで製作費の25%を費やしたことになる。ここだけは、今見ても凄い。息を呑むこと必至・・・ではあるが、肩すかしの感もある。つまり、先頭車両の危機状況は、車両底部の煽りショットに繋げて通過したことにしてしまっている。辻褄合わせの逃げなのだ。ストレートな映像勝負を避けている。当然、出来なかったのだ。その分、二台目の通過はウィンチを使って丁寧に進めるが、ここでも最後は辻褄合わせのカットバックで逃げる。

フリードキンは絵コンテに頼らない、と自慢げに吠える。この吊り橋シーンのショットすべては頭に入っていてそれを撮ったのだそうだ。何をどう撮りたいのかをスタッフと分かち合わない。その弊害が、殊に先頭車両通過のプロセスに出ている。危地を脱した、と安堵の息を吐き出すのではなく、あれ?これでうまくいっちゃうの?という裏切られた感覚。そう、まさしく、この裏切られた思いを40年前にも私は感じ、それ以降醒めた目でフリードキンを見るようになった。

ちなみにポスターに使われたショットは、第二車両が吊り橋正面のアングルで映っている。車両は橋の半ばで40度傾き、その数メートル手前をガイドとして、四つん這いになって進むアミドゥ。しかし、映画で描かれる第二車両はここまで傾いてはいない。トラックは何回か川に落ちたというから、このショットはNGテイクの一部だろう。

と考えるならば、川に落ちて爆発する第三の車両を設定した方が面白くなったのではないか、などと私は無責任に考える。積荷は車両一台につき三箱を二箱に変えるだけ。登場人物を増やしたくなければ、第二、第三車両は運転手ひとりにして。第三車両が川に落ちて爆発したら運転手だけは助けて第二車両に乗せればいい。



巨木が道を塞いでいるエピソードでも、私は疑問を覚えた。シャイダーがヒステリックにジャングルを切り開こうとする行動がわからない。いや、わかるのだが、破綻している。つまり、言葉を削ることを優先させ、主役であるシャイダーの「寡黙で愚かな演技」の見せ場にしている。

論理的に考えるならば、巨木を見た主人公はどう行動するか。積荷はニトロ。これを使って巨木を爆破できないか、と、観客の大多数が考えるのではないだろうか。観客が考えることは登場人物も考えねばいけない。

しかし、シャイダーには爆破物を取り扱うノウハウがない。相棒にも尋ねる。彼も銃器は得意だが、爆破物は苦手。そういう会話をカラフルに展開させ、演技の見せ場とすべきだろう。言葉が、絶対的に必要な展開なのだ。それを無視して、パニックボタンをヒットしたシャイダーがジャングルを切り開いて迂回路を確保する思考に走る。莫迦か、こいつ、となる。

アミドゥが爆破テロのお尋ね者だと知っていてもいいし、知らなくてもいいが、後続車を待ってチームプレイに走ることになればいい。それで、アミドゥが出した交換条件が、「爆破に成功したら、おれたちが先頭になる」とすればいいのだ。

言葉を削除した結果、爆破に成功した後、いつの間にか、アミドゥ/クレメール組が先頭に立ち、車両パンクで爆死する設定になっている。

そもそも、この巨木爆破シーンの描写が、私には曖昧だった。巨木を爆破した瞬間、絵的には中央に道が開けていなかった。アミドゥとクレメールのリアクションも、喜びではなく、徒労感主体で、私は、そうか、爆破は失敗だったのか、と一瞬思ったほどである。次のシーンではアミドゥ組が走っていたから、成功したということなのか、と理解した程度。

とはいえ、順番が入れ替わったことを観客は知らされていないのだから、爆死に関しても、私はてっきり先頭車両が通過したあと二番手がツキに見放されたのだと思った。40年ぶりの観賞でもそう思った。描写が曖昧だ。曖昧な描写は記憶から削除される。必要な言葉、芝居場をカットしたための不手際だ。



山賊あるいはゲリラと遭遇したあとのシャイダーの単独行は急激に「黄金」のボギーの「単騎狂気に走る」に傾斜する。ニューメキシコ州で撮影された地獄絵と似た「狂気の景観」は「黄金」のボギーの背景にも登場している。

ここにも演出ミスがある。

ボギーの狂気は豊かな言葉と高額の賞金に裏打ちされている。シャイダーの賞金額は底辺の暮らしから脱出できる程度。その賞金で狂気に走るのは器が小さい。仲間の死を経て「成し遂げる」ことへのオブセッションならわかる。しかし、フリードキンはひたすら「黄金」に、ボギーの名演に、舵を切ってシャイダーを小悪党に見せてしまう。

考えてみればフリードキンは、運命に翻弄され生き抜く主人公のキャラクター・アーチを描いたことがない。「フレンチ・コネクション」以下成功作はすべて、主人公は登場した瞬間から確固たる人格を形勢している。実存して動く。「恐怖の報酬」以降も主人公のキャラクター・アーチを描いて成功した作品はない。導火線の短い、つまり成長のプロセスゼロの人物しかさばくことができない。

「黄金」のジョン・ヒューストンはボギー演ずるドブスのキャラクター・アーチを見事に描き切って畏敬する父親ウォルター・ヒューストンの老獪なるオーソリティーと対立させている。



運命に翻弄される登場人物に満ちた「恐怖の報酬」という素材は、キャラクター・アーチを計算できる監督の才気が不可欠だった。「黄金」に近づけたいならば、殊に。ハナから、フリードキンには勝負権がなかった。

タンジェリン・ドリームのスコアの使い方も「エクソシスト」では巧緻だったのが、ここではぶつ切りにされた通俗。フリードキンの音楽センスの悪さを思い知った。こういう風に使われて、タンジェリン・ドリームは失望しなかっただろうか。いや、きっと失望したに違いない。

フリードキンの「恐怖の報酬」は壮大な失敗作だ。「天国の門」にも劣る。なんせあちらにはそこだけショートフィルムとして独立させたい「ローラー・スケート・リンク」というミニ・マスターピースがある。

こういうムダを映画ファンが称えるのは自由だが、現場の力学哲学を知る映画監督が褒めるのはなんとも面映い。言葉が武器のタランティーノが褒めるなんて、マックスに変。

ウィリアム・フリードキンの最高傑作は「フレンチ・コネクション」である。なぜならば、この作品に取り組んだ彼はプリマドンナではなく、狂気の王でもなかった。熱気溢れる雇われ監督としてベストを尽くし、地の利を素直に生かした。分相応の題材だった。主人公のキャラクター・アーチも組み立てる必要がなかった。ジーン・ハックマンが呼吸するだけでジミー・ポパイ・ドイルが息づいていた。


付録。


9月の採点。

「生きているだけで、愛」C 映画はくだらないが趣里がいい。

「ひろしま」B 貴重な映画だが1953年の視点が今は余計に感じられる。

「mcmafia」A この日、4話まで。翌日8話まで。前半の方が面白い。「エデン・レイク」のジェームス・ワトキンスが出世したものだ。ジェームス・ノートンの存在感はいいがキャラ設定にやや難あり。「ゴッドファーザー」を意識し過ぎか。「裁かれしは善人のみ」のアレクセイ・セレブリャコフ、「ジュピターズ・ムーン」のメラーブ・ニニッゼ、チェコのカレン・ロデン、デーヴィッド・ストラザーン、インドの役者などキャストとロケ地がすごい。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」B+ 懐かしいが面白くない。

「SHADOW影武者」B- 水墨画の映像は美しくアクションもよし。芝居、脚本ダメ。チャン・イーモウはどこまで落ちるのか。

「キナタイ」A- リアルでショッキング。役者がいい。メンドーサは異才。

「バトル・オブ・ライジング」C- マッヅ・ミケルソンだから見た。アルノー・デ・パリエールは最悪の監督。

「モータル・エンジン」B+ お話は宮崎アニメとスター・ウォーズのごった煮だがヴィジュアルはすごい。人の出入りが雑。シュレイクとヘスターのドラマを芯に据えたらよかったのに。ただし、このキャストではダメ。

「チェルノブイリ#1」A+ 見事!

10月の採点。

「恐怖の報酬」C 飽きる。言葉を削った弊害あり。人物が通俗。壮大なムダ。

「チェルノブイリ#2」A+ 見事見事!

「クレイジー・リッチ」B ジェンマ・チャンにぞっこん!

「モーガン」B アーニャ・テイラー・ジョイが心に残る。

「チャーチル/ノルマンディーの決断」B+ ブライアン・コックスのチャーチルが下品。ミランダ・リチャードソン、ジェームス・ピュアフォイが絶品。

「ジョーカー」A 画面に熱と力がある。

「バース・オブ・ア・ネーション」B+ ネイト・パーカーが製作監督脚本主演。欲張り。

「チェルノブイリ#3」A+ 見事見事見事!

「メトロマニラ」A イギリス人ショーン・エリスがフィリピンで撮った泣かせるフィルムノアール。イギリスの若手は異才が多い。

「captive」B+ メンドーサの演出はうまい。でもイサベル・ユペール、大変だったろうなあ。こんな見せ所のないジャングルの人質を何週間も。テロリストの役者たちがうまい。物語がイマイチ。

「キャプテン・マーベル」B+ ブリー、うまい!ジェンマ・チャン、もっと見たかった!

「チェルノブイリ#4」A+ 見事×4。


2019/10/19 (土)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その2。


ようやくニトロ運搬トラックが出発という時点で、あれれ、となる。一台目の車両にシャイダーとラバル。15分後出発する二台目にクレメールとアミドゥ。言葉を削ぎ落とす方向で動くフリードキンは格好の見せ場をスルーして、つまらない交代劇で時間をつぶし出発させてしまう。道中の情報集めも戦略もなし。先頭車両争いもなし。おかしくないか?

基本はジャングルの悪路を超えて行く設定なのだ。先頭車両がミスって爆発したら道路に穴が開く。二台目は圧倒的に不利だ。殊に爆破の専門家アミドゥがそこにこだわらず二番手を甘受するのはおかしい。言葉と知恵を駆使して先頭争いをするのが常識。底辺を生きる男のサヴァイヴァル倫理をかけて。そういうシーンからキャラクターは立ち上がる。フリードキンはそこに気付かない。



最大の見せ場「吊り橋綱渡り」は川を変え、国を変え、プラン変更を余儀なくされたシークェンスだ。このシーンを撮るためだけで製作費の25%を費やしたことになる。ここだけは、今見ても凄い。息を呑むこと必至・・・ではあるが、肩すかしの感もある。つまり、先頭車両の危機状況は、車両底部の煽りショットに繋げて通過したことにしてしまっている。辻褄合わせの逃げなのだ。ストレートな映像勝負を避けている。当然、出来なかったのだ。その分、二台目の通過はウィンチを使って丁寧に進めるが、ここでも最後は辻褄合わせのカットバックで逃げる。

フリードキンは絵コンテに頼らない、と自慢げに吠える。この吊り橋シーンのショットすべては頭に入っていてそれを撮ったのだそうだ。何をどう撮りたいのかをスタッフと分かち合わない。その弊害が、殊に先頭車両通過のプロセスに出ている。危地を脱した、と安堵の息を吐き出すのではなく、あれ?これでうまくいっちゃうの?という裏切られた感覚。そう、まさしく、この裏切られた思いを40年前にも私は感じ、それ以降醒めた目でフリードキンを見るようになった。

ちなみにポスターに使われたショットは、第二車両が吊り橋正面のアングルで映っている。車両は橋の半ばで40度傾き、その数メートル手前をガイドとして、四つん這いになって進むアミドゥ。しかし、映画で描かれる第二車両はここまで傾いてはいない。トラックは何回か川に落ちたというから、このショットはNGテイクの一部だろう。

と考えるならば、川に落ちて爆発する第三の車両を設定した方が面白くなったのではないか、などと私は無責任に考える。積荷は車両一台につき三箱を二箱に変えるだけ。登場人物を増やしたくなければ、第二、第三車両は運転手ひとりにして。第三車両が川に落ちて爆発したら運転手だけは助けて第二車両に乗せればいい。



巨木が道を塞いでいるエピソードでも、私は疑問を覚えた。シャイダーがヒステリックにジャングルを切り開こうとする行動がわからない。いや、わかるのだが、破綻している。つまり、言葉を削ることを優先させ、主役であるシャイダーの「寡黙で愚かな演技」の見せ場にしている。

論理的に考えるならば、巨木を見た主人公はどう行動するか。積荷はニトロ。これを使って巨木を爆破できないか、と、観客の大多数が考えるのではないだろうか。観客が考えることは登場人物も考えねばいけない。

しかし、シャイダーには爆破物を取り扱うノウハウがない。相棒にも尋ねる。彼も銃器は得意だが、爆破物は苦手。そういう会話をカラフルに展開させ、演技の見せ場とすべきだろう。言葉が、絶対的に必要な展開なのだ。それを無視して、パニックボタンをヒットしたシャイダーがジャングルを切り開いて迂回路を確保する思考に走る。莫迦か、こいつ、となる。

アミドゥが爆破テロのお尋ね者だと知っていてもいいし、知らなくてもいいが、後続車を待ってチームプレイに走ることになればいい。それで、アミドゥが出した交換条件が、「爆破に成功したら、おれたちが先頭になる」とすればいいのだ。

言葉を削除した結果、爆破に成功した後、いつの間にか、アミドゥ/クレメール組が先頭に立ち、車両パンクで爆死する設定になっている。

そもそも、この巨木爆破シーンの描写が、私には曖昧だった。巨木を爆破した瞬間、絵的には中央に道が開けていなかった。アミドゥとクレメールのリアクションも、喜びではなく、徒労感主体で、私は、そうか、爆破は失敗だったのか、と一瞬思ったほどである。次のシーンではアミドゥ組が走っていたから、成功したということなのか、と理解した程度。

とはいえ、順番が入れ替わったことを観客は知らされていないのだから、爆死に関しても、私はてっきり先頭車両が通過したあと二番手がツキに見放されたのだと思った。40年ぶりの観賞でもそう思った。描写が曖昧だ。曖昧な描写は記憶から削除される。必要な言葉、芝居場をカットしたための不手際だ。



山賊あるいはゲリラと遭遇したあとのシャイダーの単独行は急激に「黄金」のボギーの「単騎狂気に走る」に傾斜する。ニューメキシコ州で撮影された地獄絵と似た「狂気の景観」は「黄金」のボギーの背景にも登場している。

ここにも演出ミスがある。

ボギーの狂気は豊かな言葉と高額の賞金に裏打ちされている。シャイダーの賞金額は底辺の暮らしから脱出できる程度。その賞金で狂気に走るのは器が小さい。仲間の死を経て「成し遂げる」ことへのオブセッションならわかる。しかし、フリードキンはひたすら「黄金」に、ボギーの名演に、舵を切ってシャイダーを小悪党に見せてしまう。

考えてみればフリードキンは、運命に翻弄され生き抜く主人公のキャラクター・アーチを描いたことがない。「フレンチ・コネクション」以下成功作はすべて、主人公は登場した瞬間から確固たる人格を形勢している。実存して動く。「恐怖の報酬」以降も主人公のキャラクター・アーチを描いて成功した作品はない。導火線の短い、つまり成長のプロセスゼロの人物しかさばくことができない。

「黄金」のジョン・ヒューストンはボギー演ずるドブスのキャラクター・アーチを見事に描き切って畏敬する父親ウォルター・ヒューストンの老獪なるオーソリティーと対立させている。



運命に翻弄される登場人物に満ちた「恐怖の報酬」という素材は、キャラクター・アーチを計算できる監督の才気が不可欠だった。「黄金」に近づけたいならば、殊に。ハナから、フリードキンには勝負権がなかった。

タンジェリン・ドリームのスコアの使い方も「エクソシスト」では巧緻だったのが、ここではぶつ切りにされた通俗。フリードキンの音楽センスの悪さを思い知った。こういう風に使われて、タンジェリン・ドリームは失望しなかっただろうか。いや、きっと失望したに違いない。

フリードキンの「恐怖の報酬」は壮大な失敗作だ。「天国の門」にも劣る。なんせあちらにはそこだけショートフィルムとして独立させたい「ローラー・スケート・リンク」というミニ・マスターピースがある。

こういうムダを映画ファンが称えるのは自由だが、現場の力学哲学を知る映画監督が褒めるのはなんとも面映い。言葉が武器のタランティーノが褒めるなんて、マックスに変。

ウィリアム・フリードキンの最高傑作は「フレンチ・コネクション」である。なぜならば、この作品に取り組んだ彼はプリマドンナではなく、狂気の王でもなかった。熱気溢れる雇われ監督としてベストを尽くし、地の利を素直に生かした。分相応の題材だった。主人公のキャラクター・アーチも組み立てる必要がなかった。ジーン・ハックマンが呼吸するだけでジミー・ポパイ・ドイルが息づいていた。


付録。


9月の採点。

「生きているだけで、愛」C 映画はくだらないが趣里がいい。

「ひろしま」B 貴重な映画だが1953年の視点が今は余計に感じられる。

「mcmafia」A この日、4話まで。翌日8話まで。前半の方が面白い。「エデン・レイク」のジェームス・ワトキンスが出世したものだ。ジェームス・ノートンの存在感はいいがキャラ設定にやや難あり。「ゴッドファーザー」を意識し過ぎか。「裁かれしは善人のみ」のアレクセイ・セレブリャコフ、「ジュピターズ・ムーン」のメラーブ・ニニッゼ、チェコのカレン・ロデン、デーヴィッド・ストラザーン、インドの役者などキャストとロケ地がすごい。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」B+ 懐かしいが面白くない。

「SHADOW影武者」B- 水墨画の映像は美しくアクションもよし。芝居、脚本ダメ。チャン・イーモウはどこまで落ちるのか。

「キナタイ」A- リアルでショッキング。役者がいい。メンドーサは異才。

「バトル・オブ・ライジング」C- マッヅ・ミケルソンだから見た。アルノー・デ・パリエールは最悪の監督。

「モータル・エンジン」B+ お話は宮崎アニメとスター・ウォーズのごった煮だがヴィジュアルはすごい。人の出入りが雑。シュレイクとヘスターのドラマを芯に据えたらよかったのに。ただし、このキャストではダメ。

「チェルノブイリ#1」A+ 見事!

10月の採点。

「恐怖の報酬」C 飽きる。言葉を削った弊害あり。人物が通俗。壮大なムダ。

「チェルノブイリ#2」A+ 見事見事!

「クレイジー・リッチ」B ジェンマ・チャンにぞっこん!

「モーガン」B アーニャ・テイラー・ジョイが心に残る。

「チャーチル/ノルマンディーの決断」B+ ブライアン・コックスのチャーチルが下品。ミランダ・リチャードソン、ジェームス・ピュアフォイが絶品。

「ジョーカー」A 画面に熱と力がある。

「バース・オブ・ア・ネーション」B+ ネイト・パーカーが製作監督脚本主演。欲張り。

「チェルノブイリ#3」A+ 見事見事見事!

「メトロマニラ」A イギリス人ショーン・エリスがフィリピンで撮った泣かせるフィルムノアール。イギリスの若手は異才が多い。

「captive」B+ メンドーサの演出はうまい。でもイサベル・ユペール、大変だったろうなあ。こんな見せ所のないジャングルの人質を何週間も。テロリストの役者たちがうまい。物語がイマイチ。

「キャプテン・マーベル」B+ ブリー、うまい!ジェンマ・チャン、もっと見たかった!

「チェルノブイリ#4」A+ 見事×4。


2019/10/18 (金)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その1。


アンリ・G・クルーゾー版の「恐怖の報酬」は、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ペーター・ファン・アイク演ずるワル4人それぞれの性格を匂わせる言葉があり、連帯や敵対の源になったと記憶している。(きょうクライテリオン版を注文したから今月中には検証可能)

「SORCERER」を作るにあたってフリードキンが参照にしたジョン・ヒューストンの「黄金」も言葉は豊かだ。こちらのハンフリー・ボガートとウォルター・ヒューストンの関係を参考に、クルーゾーはモンタンとヴァネルの関係を築き上げた感もある。

どちらを見ても、根底はチームプレイであり言葉は豊富だ。そこから言葉を削ったらまったりと退屈になる。

引きこもり型寡黙の主人公が単独で行動する「ドライブ」や「サムライ」とはゲームが違う。そこを理解せず、「SORCERER」を「ドライブ」と同レヴェルで絶賛するレフンは、愚かな青二才だ。

そんな前知識で、「SORCERER」と再び斬り結んだ。



40年前の観賞と大きく違うのは、最初の30分、4人の背景説明のくだりで、私が匙を投げたことだ。退屈なのである。

ブルーノ・クレメール演ずるフランス人投資家のエピソード以外、セリフは極めて簡略化されている。その分、映像が説明的になって、どのエピソードからも、キャラクターが見えて来ない。

順番で言えば、フランシスコ・ラバル演ずる殺し屋のお仕事から幕を明ける。彼の存在もオープニング・エピソードも、記憶には全く残っていなかった。結局、この殺し屋は後々ゲリラと戦う時の「道具」として役に立つだけで何を考えて「基地」となる村に辿り着き、どこへ行こうとしていたのか皆目わからない。一応、マナグアへのトランジットと言うのだが村に滞在してしまう理由が不明なのだ。

4人目に選抜された男(アミドゥ演ずるテロリストの知己)を殺してまで輸送隊に加わる理由も、「殺し屋だから殺した」でフリードキンは済ませている。アミドゥとの葛藤も怒号一発で終わり。人間関係のひりひりのかけらもなく道具、もしくは記号に終始する。従ってキャラクターとして立ち上がることもない。

アミドゥのテロリストのエピソードがドラマ的には一番マシだが、これもキャラクターを匂わせることよりも、「爆薬を扱えるテロリスト」の紹介に終わっている。

パリでのブルーノ・クレメールのエピソードはプロローグにしては長いし情報過多。おまけに人物に惹かれるものがない。スターであるリノ・ヴァンチュラがやればそれなりのウェイトが必要だったかもしれないが、クレメールに格落ちした段階でエピソードごと削るべきだった。この過去は気の利いた会話で語ればよい過去であって律儀に紹介する過去ではない。

クレメールは演技派で「奇襲戦隊」のようなアンサンブルプレイでは存在感を匂わせるが、エピソードを背負って立つとなると、華が無い分、飽きる。こんな男がどんな苦境に陥ろうがWHO CARESの世界なのだ。

ロイ・シャイダーのエピソードも中途半端だ。教会を襲う、という実話からのアイデアに溺れたフリードキンの勇み足としか思えない。シャイダーのキャラも埋没している。復讐を誓うボスのシーンなど実に安っぽい。

導入部の4人の紹介の手際が恐ろしく悪い。このくだりだけで観客の心は離れて大こけに至ったのだと今は確信できる。



ここで疑問がひとつ。「黄金」に魅せられたフリードキンが、その人物紹介のプロセスを何故参考にしなかったのかという点だ。

「黄金」の舞台は1925年のメキシコ。原作はメキシコ在住のドイツ人覆面作家B・トラヴェンが1927年に発表した。製作されたのは1947年。当時としては大々的なメキシコ・ロケが敢行され、バーバンクのワーナー撮影所で室内シーンや夜のシエラマドレ山系のエピソードなどが撮影されている。

導入部はタンピコ。この港町に流れて来たアメリカ人浮浪者ドブス(ハンフリー・ボガート)が先ず紹介され、彼の行動を追いながら若い流れ者カーティン(ティム・ホルト)が登場し、砂金掘りの老人ハワード(ウォルター・ヒューストン)と安宿「黒い熊」で出会う。このトリオが主要メンバーで、一攫千金を夢見てシエラマドレの山岳地帯へ入り込む。4人目のコディ(ブルース・ベネット)は中盤に登場し、束の間の敵対と共闘の後、死んでしまう。

「SORCERER」の人物配置を見る限り、ボギーのようなスターとともに物語世界へ入るフォーミュラがもっとも合理的であったと思う。ボギーと比べると随分貧相だが、当時一応Aランクのスターであったロイ・シャイダーの事件からスタートし、彼が南米に逃亡していくプロセスで二番手のアミドゥなりクレメールと出会い、辿り着いた「基地」の村で、三番手の知恵者がいて、四番手のラバルが最後にグループに参加する、という構成を何故退けたのか。

でなければ、シャイダーとアミドゥのエピソードだけをカットバックさせて彼らが出会うことで「基地」に辿り着き、三番手、四番手が加わるテもあった。

「過去を逃れて」を謳うのはマックスでも二人に絞って後半のジャングル踏破により時間を割くべきだった。現状の構成は「4大スター競演」仕様だ。マックィーンもマストロヤンニもヴァンチュラも出演できないと分かった時点で、プランAは放棄すべきだった。



疑問点は他にもある。先ずは、火災事故を起こした山岳部の油井と「基地」の村との距離感だ。セリフでは200キロ強と入るのだが、映像ではヘリコプターでひとっ飛びの表現になっている。

距離感の確立は、こういうミッションものではとても大事なエレメントなのだがフリードキンは曖昧なまま力で押し切ろうとする。私には撮影時の混乱が絵に出ているとしか思えない。

後々、ラフカットを見たワーナー幹部のひとりが油井への距離がわからないからトラックの走行メーターを追加撮影したらどうか、と切り出したところ、フリードキンは激昂して、オレはインサートの追加撮影などしない、と怒鳴ったそうである。ところが、二週間後、フリードキンは考えを変えて、走行メーターのインサートを撮った。これがメーターの脇に書きなぐられる「218」という数字だ。目的地まで218キロ。トラックが止まってしまったとき、メーター数値との差で、残り何キロをシャイダーがニトロを持って歩かねばならないかわかる。

私に言わせれば、最初に提言された段階で、その利点を見出せなかったフリードキンのプリマドンナぶりが問題だ。エゴに溺れて冷静な判断を瞬時に下せない監督ということになる。ポストプロでこんな具合だったら現場では誰が何を言っても聞き入れなかったのではないか。映画評論家や映画ファンには推し量ることのできない現場の力学というものがある。現場でフリードキンは数々の失敗を犯している。それがこの作品の全篇を覆うディテールの甘さとなって現出したように思う。

暴動の起きる村は「基地」の村のようだが、主要人物が絡むのが夜の葬列だけというのが理解できないし、被害者を運ぶトラックは後に出て来る「吊り橋」を軽く渡って来たことになる。それとも、後々「吊り橋」に行き当たったシャイダーが「道を間違えた」と叫ぶように、「吊り橋」は正規のルートではないということなのか。だとしたら、二台揃って「吊り橋」にチャレンジする意味がわからない。常識的に考えて、道を間違えたと思ったら危険な吊り橋など渡らず引き返すよね。吊り橋越えたら油井に行き着くかどうかもわからないわけだし。ルートがいくつかある、吊り橋ルートは最短だが車では渡れないだろう、というような解説が必要なのだ。エクジステンシャリズムだけでは映画は前に進まない。

シャイダーがトラックに書きつけた「218」の数字も役に立たなくなる。つまり正規のルートで218キロなのだから「道を間違えた」吊り橋ルートはどれだけ迂回したのか、あるいはショートカットだったのか。

いずれにせよ、「基地」の村での時間が長く、主要人物の人となりを学ぶべき会話もないので、前半の1時間はだらだらとした展開で苛立つ。唯一の救いは二台のトラックの意匠。このデザインだけが傑出している。

(その2に続く)


2019/10/18 (金)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その1。


アンリ・G・クルーゾー版の「恐怖の報酬」は、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ペーター・ファン・アイク演ずるワル4人それぞれの性格を匂わせる言葉があり、連帯や敵対の源になったと記憶している。(きょうクライテリオン版を注文したから今月中には検証可能)

「SORCERER」を作るにあたってフリードキンが参照にしたジョン・ヒューストンの「黄金」も言葉は豊かだ。こちらのハンフリー・ボガートとウォルター・ヒューストンの関係を参考に、クルーゾーはモンタンとヴァネルの関係を築き上げた感もある。

どちらを見ても、根底はチームプレイであり言葉は豊富だ。そこから言葉を削ったらまったりと退屈になる。

引きこもり型寡黙の主人公が単独で行動する「ドライブ」や「サムライ」とはゲームが違う。そこを理解せず、「SORCERER」を「ドライブ」と同レヴェルで絶賛するレフンは、愚かな青二才だ。

そんな前知識で、「SORCERER」と再び斬り結んだ。



40年前の観賞と大きく違うのは、最初の30分、4人の背景説明のくだりで、私が匙を投げたことだ。退屈なのである。

ブルーノ・クレメール演ずるフランス人投資家のエピソード以外、セリフは極めて簡略化されている。その分、映像が説明的になって、どのエピソードからも、キャラクターが見えて来ない。

順番で言えば、フランシスコ・ラバル演ずる殺し屋のお仕事から幕を明ける。彼の存在もオープニング・エピソードも、記憶には全く残っていなかった。結局、この殺し屋は後々ゲリラと戦う時の「道具」として役に立つだけで何を考えて「基地」となる村に辿り着き、どこへ行こうとしていたのか皆目わからない。一応、マナグアへのトランジットと言うのだが村に滞在してしまう理由が不明なのだ。

4人目に選抜された男(アミドゥ演ずるテロリストの知己)を殺してまで輸送隊に加わる理由も、「殺し屋だから殺した」でフリードキンは済ませている。アミドゥとの葛藤も怒号一発で終わり。人間関係のひりひりのかけらもなく道具、もしくは記号に終始する。従ってキャラクターとして立ち上がることもない。

アミドゥのテロリストのエピソードがドラマ的には一番マシだが、これもキャラクターを匂わせることよりも、「爆薬を扱えるテロリスト」の紹介に終わっている。

パリでのブルーノ・クレメールのエピソードはプロローグにしては長いし情報過多。おまけに人物に惹かれるものがない。スターであるリノ・ヴァンチュラがやればそれなりのウェイトが必要だったかもしれないが、クレメールに格落ちした段階でエピソードごと削るべきだった。この過去は気の利いた会話で語ればよい過去であって律儀に紹介する過去ではない。

クレメールは演技派で「奇襲戦隊」のようなアンサンブルプレイでは存在感を匂わせるが、エピソードを背負って立つとなると、華が無い分、飽きる。こんな男がどんな苦境に陥ろうがWHO CARESの世界なのだ。

ロイ・シャイダーのエピソードも中途半端だ。教会を襲う、という実話からのアイデアに溺れたフリードキンの勇み足としか思えない。シャイダーのキャラも埋没している。復讐を誓うボスのシーンなど実に安っぽい。

導入部の4人の紹介の手際が恐ろしく悪い。このくだりだけで観客の心は離れて大こけに至ったのだと今は確信できる。



ここで疑問がひとつ。「黄金」に魅せられたフリードキンが、その人物紹介のプロセスを何故参考にしなかったのかという点だ。

「黄金」の舞台は1925年のメキシコ。原作はメキシコ在住のドイツ人覆面作家B・トラヴェンが1927年に発表した。製作されたのは1947年。当時としては大々的なメキシコ・ロケが敢行され、バーバンクのワーナー撮影所で室内シーンや夜のシエラマドレ山系のエピソードなどが撮影されている。

導入部はタンピコ。この港町に流れて来たアメリカ人浮浪者ドブス(ハンフリー・ボガート)が先ず紹介され、彼の行動を追いながら若い流れ者カーティン(ティム・ホルト)が登場し、砂金掘りの老人ハワード(ウォルター・ヒューストン)と安宿「黒い熊」で出会う。このトリオが主要メンバーで、一攫千金を夢見てシエラマドレの山岳地帯へ入り込む。4人目のコディ(ブルース・ベネット)は中盤に登場し、束の間の敵対と共闘の後、死んでしまう。

「SORCERER」の人物配置を見る限り、ボギーのようなスターとともに物語世界へ入るフォーミュラがもっとも合理的であったと思う。ボギーと比べると随分貧相だが、当時一応Aランクのスターであったロイ・シャイダーの事件からスタートし、彼が南米に逃亡していくプロセスで二番手のアミドゥなりクレメールと出会い、辿り着いた「基地」の村で、三番手の知恵者がいて、四番手のラバルが最後にグループに参加する、という構成を何故退けたのか。

でなければ、シャイダーとアミドゥのエピソードだけをカットバックさせて彼らが出会うことで「基地」に辿り着き、三番手、四番手が加わるテもあった。

「過去を逃れて」を謳うのはマックスでも二人に絞って後半のジャングル踏破により時間を割くべきだった。現状の構成は「4大スター競演」仕様だ。マックィーンもマストロヤンニもヴァンチュラも出演できないと分かった時点で、プランAは放棄すべきだった。



疑問点は他にもある。先ずは、火災事故を起こした山岳部の油井と「基地」の村との距離感だ。セリフでは200キロ強と入るのだが、映像ではヘリコプターでひとっ飛びの表現になっている。

距離感の確立は、こういうミッションものではとても大事なエレメントなのだがフリードキンは曖昧なまま力で押し切ろうとする。私には撮影時の混乱が絵に出ているとしか思えない。

後々、ラフカットを見たワーナー幹部のひとりが油井への距離がわからないからトラックの走行メーターを追加撮影したらどうか、と切り出したところ、フリードキンは激昂して、オレはインサートの追加撮影などしない、と怒鳴ったそうである。ところが、二週間後、フリードキンは考えを変えて、走行メーターのインサートを撮った。これがメーターの脇に書きなぐられる「218」という数字だ。目的地まで218キロ。トラックが止まってしまったとき、メーター数値との差で、残り何キロをシャイダーがニトロを持って歩かねばならないかわかる。

私に言わせれば、最初に提言された段階で、その利点を見出せなかったフリードキンのプリマドンナぶりが問題だ。エゴに溺れて冷静な判断を瞬時に下せない監督ということになる。ポストプロでこんな具合だったら現場では誰が何を言っても聞き入れなかったのではないか。映画評論家や映画ファンには推し量ることのできない現場の力学というものがある。現場でフリードキンは数々の失敗を犯している。それがこの作品の全篇を覆うディテールの甘さとなって現出したように思う。

暴動の起きる村は「基地」の村のようだが、主要人物が絡むのが夜の葬列だけというのが理解できないし、被害者を運ぶトラックは後に出て来る「吊り橋」を軽く渡って来たことになる。それとも、後々「吊り橋」に行き当たったシャイダーが「道を間違えた」と叫ぶように、「吊り橋」は正規のルートではないということなのか。だとしたら、二台揃って「吊り橋」にチャレンジする意味がわからない。常識的に考えて、道を間違えたと思ったら危険な吊り橋など渡らず引き返すよね。吊り橋越えたら油井に行き着くかどうかもわからないわけだし。ルートがいくつかある、吊り橋ルートは最短だが車では渡れないだろう、というような解説が必要なのだ。エクジステンシャリズムだけでは映画は前に進まない。

シャイダーがトラックに書きつけた「218」の数字も役に立たなくなる。つまり正規のルートで218キロなのだから「道を間違えた」吊り橋ルートはどれだけ迂回したのか、あるいはショートカットだったのか。

いずれにせよ、「基地」の村での時間が長く、主要人物の人となりを学ぶべき会話もないので、前半の1時間はだらだらとした展開で苛立つ。唯一の救いは二台のトラックの意匠。このデザインだけが傑出している。

(その2に続く)


 a-Nikki 1.02